NAFL16巻 よくある質問
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該当ページ | 質問 | 回答 |
p.36、39 | 方言のアクセントについて、p.36やp.39に出てくる「二型アクセント」とはどんなものですか。また、一型、二型の分類はどのようにするのでしょうか。 | 「二型アクセント」は、長崎・熊本など、九州の一部地域に目立って見られるもので、次のAまたはBの型のアクセントの型をもつ、というものです。「二型」というのは、このように2つの型を同時にもっていることから呼ばれます。 A型:ハ┐ナ(鼻) オナ┐ゴ(女) アマ┐カ(甘い)ハ┐ルッ(腫れる) B型:ハナ┐(花) オトコ┐(男) シロカ┐(白い) ハルッ┐(晴れる) 「二型アクセント」は、語によってアクセントの型がA型だったりB型だったりすることから、参考書によっては「語声調アクセント」などとも呼ばれているようです。(「声調」とは、音節内に高低アクセントがあるもので、中国語の大きな特徴として知られています。)二型アクセント域に隣接する地域では、このA型がB型と同じになり、いわゆる統合一型アクセントと呼ばれるところがあります。 但し、このアクセントは、使用地域が限られていることもあるせいか、あまり一般的には知られておらず、アクセント辞典のような専門書は別として、いわゆる「東京式」「京阪式」「一型」など、アクセントの種類が示される際には、「二型アクセント」が採り上げられることはほとんどないようです。 |
p.73 | タスク10について教えてください。三重県北部に住んでいます。三重県の気づかない方言について具体的に教えてください。 | 気づかない方言とは、p.72もありますように、実は「地域差が存在していたにも関わらず、他地方の方言話者と接触するまでは、その語が方言であることは気づかない」という語のことを言います。ポイントは「その語が方言であることは気づかない」という点です。三重県に住んでいらっしゃるこのことですので、「共通語と思って使っているけれども、実は方言である」という点に、実は「気づいていない」のかもしれません。 三重県の方言辞典には「「あげる」について、「くれる」を「あげる」の意に使っている。」という記述がありました。標準語と異なる語形であれば「方言」であると気づくことができますが、「あげる」は同じ語形の語がありますので、「方言」であると認識されにくいでしょう。このように標準語と同じ語形でありながら、異なる意味、用法で使われている語がありましたら、それが「気づかない方言」にあたります。 これは気づいていないのが良い、悪いというタスクではないありません。このようなタスクを通じて、「実は共通語でなない」という語があれば、その点を地域の日本語教育に活かしていただくことは、学習者が実践的な日本語運用に役立ちます。 |
p.85-106 | 敬語にはさまざまな種類があるようですが、違いが分かりません。 | 以下、敬語の分類についてまとめてみます。 尊敬語:話題の人について、話し手がその人への敬意を表す表現。 例)いらっしゃる お~になる ~れる・られる 御~ 謙譲語:話し手自身または身内を低め、相対的に話題の人を高める表現。 例)いただく 拝見する お~する 愚~ 小生 丁寧語:話し手が聞き手への敬意的配慮を表す表現。 例)~です ~ます ~ございます 丁重語:本来は謙譲語であったものが、謙譲の意味を持たずに文に丁重な響きを持たせるために使われる表現。 例)こちら いかが ~と申します 美化語:話題の物事を上品に美化して言う表現。 例)お~ ご~ これとは別に、素材敬語・他者敬語といった分類の仕方もあります。上に挙げた尊敬語、謙譲語は素材敬語に、丁寧語や丁重語、美化語は他者敬語になります。 しかし、聞き手そのものが敬語を使うべき相手の場合は素材敬語と同時に、他者敬語も使っていると考えられます。94ページにある例を見てみましょう。分かりやすくするため、敬語を「ご覧になる」に統一して考えてみます。 A:(友人に)先生は明日映画をご覧になるそうだよ B:(先生に)映画をご覧になりますか Aでは聞き手は友人ですので、先生に対する尊敬語として「ご覧になる」を使っていますが、語尾は「そうです」ではなく「そうだよ」となっており、丁寧語は使っていません。これに対し、Bでは尊敬語として「ご覧になる」を使い、さらに聞き手が先生ですので「ますか」という丁寧語も使っているわけです。 このように細かく分類すれば尊敬語(素材敬語)の部分は「ご覧になる」であり、その後の「ますか」は丁寧語(他者敬語)と考えられます。つまり、聞き手に対する直接の敬意を表している部分は「ます」という丁寧語の部分になるのです。 |
p.89 | 下から6行目「④学校に校長を尋ねてきたお客さんに・・・校長先生は校長室にいらっしゃいます」とあります。身内の校長に尊敬表現の「いらっしゃいます」というのはおかしいのではないでしょうか。 | p.89下から3行目-p.90 1-3行目において、「話し手にとって身内であり目上である人物のことを話題にして、 よその人に話すとき、人によって「来る・参る・いらっしゃる」の使い方に違いがある…略…これはその場面の話し手・聞き手・話題の人物の関係をどのように位置づけるかという人間関係把握の習慣や、ことばを選択するルールが違うからではないか」とあります。つまり、話し手にとって身内であり目上である人物のことを話題にする際には、ひとえに「身内であるから謙譲語を使うべきだ」とはいえないわけです。尊敬語、謙譲語、またはどちらでもない中立的な表現を用いるかの選択は、話者の「話し手・聞き手・話題の人物」の関係の把握の仕方によって変わってくるということです。 そのように考えた場合、「校長先生は応接室にいらっしゃいます」といった「先生」はどのように話し手である自分自身、聞き手、そして話題の人物である「校長先生」の関係を捉えていたのでしょうか。「いらっしゃいます」という表現を使ったわけですから、校長先生を「同じ学校の職員という身内であっても尊敬語を使って高めるべき人物」として捉えていたことがわかります。また、そのように校長先生を捉え、示すことが「聞き手」にとっても適切であると考えていたことがわかります。つまり、「お客さん」と「先生」がともに「校長先生」を高めるべき存在であるという関係性が成り立つ場合に「いらしゃいます」という表現を使うことが考えられるのです。例えば、もともとその学校に勤めていた教師が学校を訪ねてきた場合には、たとえ今「お客さん」という立場で学校に訪問してきていたとしても、もともとその一教師も校長先生の下で働いていたわけですから、話し手である「先生」が、「自分と元同僚」「高校のトップである校長先生」と「話し手・聞き手・話題の人物」の人間関係を捉え、校長先生を高める言い方をすることは十分考えられるでしょう。 一方、「学校」が「会社」のように機能する場合、例えばどこかの会社と取引をする、などの場合は「〇〇会社のお客さん」と「〇〇高校の教師と校長」という人間関係の認識になりますから、校長に対して「いらっしゃいます」という尊敬語は使わないでしょう。 しかし、聞き手側がいつも話し手と同じ認識を持っているとは限りません。聞き手が話し手と違う人間関係の認識をしている場合には、話し手の敬語の使い方に対し、違和感を覚えたり、失礼だと感じることも考えられます。 または、改まりすぎだと感じることもあるかもしれません。このように、敬語行動に関しては聞き手側の気持ちを考えてみることも大切です。④の例の場合、自分がどのような外来者だったら、「いらっしゃいます」という表現が適切と感じられ、どのような外来者だと不適切と考えられるかといったことを分析してみるとよいかと思います。 この点に関しては、p.90 5行目以降にも説明がありますので、確認してみてください。 以上のように、「校長先生は応接室にいらっしゃいます」という発話は、話し手が「話し手・聞き手・話題の人物」の関係をどのように把握していたかを反映した表現であり、誤用であるとはいえません。むしろ、「話し手・聞き手・話題の人物」の関係をどのように捉え話し手が「いらっしゃいます」という尊敬語を選んだのか、また、どのような聞き手がどのようにこの表現を捉えるのかといった背景に注目し敬語行動について考えみるということがこの節のポイントでもあります。 |
p/93 | 「丁寧語」と「丁重語」はどう違うのですか。 | 91ページに、「話し相手に敬意を表す対者敬語(丁寧語や丁重語)」とありますから、テキストでは明らかに両者が使い分けられていることが分かります。そこで、テキストにある「丁寧語」と「丁重語」を比べてみると、「丁寧語」の例には「です・ます・ございます」があり、「丁重語」にも、「ございます」があります。 実は、この二つの「ございます」は、丁寧語の場合であれば「です・ます」と同様に、文末表現として丁寧さを表すものになり、丁重語の場合は、動詞「あります」が謙譲語の形になって「ございます」と表現されるものとしての違いがあります。例えば、「こちらがお手洗いでございます」の場合は丁寧語、「こちらにお手洗いがございます」の場合は丁重語となります。 |
p.96 | p.96謙譲語の一覧に「いたす」がありますが、「承知いたしました」「拝見いたします」「参上いたします」など、表の同じ枠の「人の行為や状態」に入っている謙譲語と「いたす」を同時に使うと二重敬語になるでしょうか? | 「承知する」「拝見する」「参上する」「いたす」は全て謙譲語ですので、「承知する+いたす」「拝見する+いたす」「参上する+いたす」は二重敬語であるように見えます。 しかし、p.96の下の図にあるように、現在では敬語を5つに分けるという見方があり、謙譲語はその役割の違いから、行為が向かう先の人物を立てる「謙譲語Ⅰ」と自分の行為を(話を聞いている)相手に対して丁重に述べる「謙譲語Ⅱ(丁重語)」にさらに分類されます。この分類からご質問の表現を見てみますと、 謙譲語Ⅰ…「承知する」「拝見する」 謙譲語Ⅱ(丁重語)…「いたす」 となります。このように見ると「承知いたす」「拝見いたす」は「謙譲語Ⅰ+謙譲語Ⅱ(丁重語)」となっており、機能的に異なる敬語が重ねて使われていることになるので、二重敬語ではないということになります。旧来の「謙譲語」という大きな括りで見ると当該表現は「謙譲語+謙譲語」となり「二重敬語」とする見方もあります。しかし、「承知いたす」「拝見いたす」を誤用とは感じない背景を考えますと、やはりそれは「承知する・拝見する」と「いたす」が示す敬意の種類が異なるからであるといえるでしょう。「承知する・拝見する」という表現が自分が「承知・拝見」する相手への敬意を示す表現であるのに対し、「いたす」はその場で話を聞いている相手に対する敬意の表現であるというわけです。もちろん、行為が向かう先の人物と話の聞き手が同一の場合もあるでしょうが、ポイントは何に対して敬意を示しているのかという点が異なるということです。 「参上する」は少しやっかいです。分類上は類似の表現「参る」とともに謙譲語Ⅱ(丁重語)として分類されるようです。しかし「参上する」というのは「身分の高い人のところへうかがう」という意味であり、行為が向かう先への敬意がおのずと含まれた表現であるとも捉えることができます。(実際、「参上する」を「謙譲語Ⅰ」と(も)すべきだと主張する研究者もいます。)そのため、分類上「参上いたします」は「謙譲語Ⅱ+謙譲語Ⅱ」で二重敬語ということになってしまいますが、私たちが違和感を感じないのは上でも述べたように、「参上する」と「いたす」が示す敬意の先が完全に重複していないからであるといえそうです。 |
p.96 | 「謙譲語Ⅰ」と「謙譲語Ⅱ」はどう違うのですか。 | 謙譲語Ⅰに分類される、「伺う」と、謙譲語Ⅱに分類される「参る」の違いについて、ご説明します。 謙譲語Ⅰというのは、行為の相手に対して立てています。そこで、行為の相手がある動詞について使われます。 謙譲語Ⅱというのは、話し手・聞き手に対して丁重に述べているものです。 例えば、「昨日、父のところへ伺いました。」というのは、正しい謙譲語の使い方ではありません。 「伺う」は、行為の向かう先の人物を立てる謙譲語Ⅰなのですが、行為の向かう先→父のところ、と身内である父を立ててしまっているためです。 「昨日、父のところへ参りました。」とすると、正しい使い方になります。この場合、「参る」は、聞き手に対して、「行く」を丁重に述べていおり、行為の向かう先「父」を立てていないので、誤用にならないのです。 このように、謙譲語Ⅱは、行為の向かう先の相手を立てていなくても使うことができる点が謙譲語Ⅰとの違いです。 |
p.104、115 | p.104に「社長もそのように申されます」という敬語について、「申されます」は謙譲語「申す」に尊敬語「れる」が付加されたものだと書かれています。また、「会長がお書きになられたものです」という敬語について、「お~になる」という尊敬の形式に、尊敬語「れる」が付加されたものだと書かれています。さらに、p.115問題[23]の解説のPDFには、「お召しになられませんか」は、「「お召しになる」に「られる」をつけてしまった二重尊敬の形式です」と書かれています。 上の3つの例から、二重尊敬は、尊敬の形式が2つ重なっているものだということは分かりましたが、尊敬語と謙譲語が重なった場合、謙譲語と丁寧語が重なった場合、尊敬語と丁寧語が重なった場合なども不適切な敬語となるのでしょうか?どのようなケースが試験で「二重敬語」と判断されるか、教えてください。 |
二重敬語というのは一つの語に対し、同じ種類の敬語(「尊敬語+尊敬語」or「謙譲語+謙譲語」)を二重に使った表現を指します。そのため、ご指摘の「お書きになられる」「お召しになられる」は尊敬語+尊敬語という形式になっていますので、二重敬語にあたります。p.105にある「おっしゃられる」も尊敬語「おっしゃる」に尊敬語「れる」が付加されていますから二重敬語ということになります。また、「謙譲語+謙譲語」の例には「お伺いする」(「伺う」+「お~する」)や「ご参上する」(「参上」+「ご~する」)などがあります。 一方、「申されます」は謙譲語「申す」に尊敬語「れる」が付加された例であり、敬語の種類が異なります。そのため、これは二重敬語には該当しません。この場合は尊敬語を使わなければなりませんから、「言う」の尊敬語である「おっしゃる」を使い、「社長もそのようにおっしゃいます」とするのが正しいのですが、誤って「言う」の謙譲語を使い、その上に尊敬語「れる」が重なっています。こちらはご質問の中の「尊敬語と謙譲語が重なった場合」の例で、テキストにあるようにこの表現を容認するかには人によって差がありますが、文法的には不適切ということになります。 「謙譲語と丁寧語が重なった場合」、「尊敬語と丁寧語が重なった場合」ですが、これは適切な敬語です。例えば「申します」は謙譲語「申す」と丁寧語「ます」が重なったもの、「おっしゃいます」は尊敬語「おっしゃる」と丁寧語「ます」が重なったものですから、通常使われている敬語の形になります。 以上のように二重敬語というのは同じ種類の敬語を重ねて使っている表現を指しますので、その点おさえておくとよいでしょう。また、二重敬語は敬語の作り方としては正しくありませんが、中には正しい言い方として定着しているものもありますので(例:お召し上がりになる、お伺いする)、この点にも注意するとよいかと思います。 |
p.113 | p. 113 (6)命令形「起きろ」を「オキレ」― について。調べたところ、「オキレ」は東北と九州の方言のようですが、解答は「C 関東方言」となっています。解説は第2章第2節3を参照にとのことで、p.28を確認いたしましたが、一段動詞の五段化に関する解説が確認できませんでした。関東の一段動詞の五段化についてご教授いただきたく存じます。 | 「一段動詞の五段化」とは、一段動詞が、五段動詞と同様の活用をしていることです。例えば、「読む」のような五段動詞の命令形は、「読め」と活用語尾はエ段になります。一方、問題文で提示されている「起きる」は一段動詞で、本来命令形は「起きろ」となります。しかし、「起きれ」と活用語尾をエ段に変化させている現象を五段化と呼んでおります。本問は、選択肢の4つの方言において、「一段動詞の五段化がほとんどみられない」方言を選ぶ問題ですが、「選択肢にあるそれぞれの方言で、五段動詞の活用と同様に変化している特徴を個々に見てみます。 選択肢A、北海道方言は、テキストp.27の下から5行目に述べられている通り、「起きれ」と五段活用と同様の活用をする特色があります。選択肢B、九州方言の動詞活用については、「(肥筑方言では)一段動詞のラ行五段化現象があります。上一段活用動詞の『起きる』を例にすると…(中略)…オキレ(起きろ)のように五段活用に近づ」(p.37 13行目~)くとあり、また「(薩隅方言では)一段動詞のラ行五段化現象も存在します。上一段活用動詞の『起きる』では、…(中略)…オキレ(起きろ)のように、『みる』ではミラン(見ない)、ミレ(見ろ)のように」(p.39 14行目~)なるとあります。このように、九州方言では「一段動詞の五段化」が見られます。選択肢C、関東方言の動詞活用についての特徴は、サ変・カ変動詞の一段化です。「サ変動詞の『する』が『シナイ・シル』、カ変動詞の『来る』が『キナイ・キル』のように一段化する傾向が全域で顕著」(p.28 下から7行目~)という点で、「一段動詞の五段化」ではありませんので、選択肢Cが正解となります。 選択肢D、東北方言でも動詞の活用については、「日本海側で一段活用の命令形が「ミレ」(見ろ)、「アゲレ」(開けろ)のようにエ段」(p.26 下からが11行目~)になるという特徴があります。本来「ミロ」となるところが、五段活用のように「ミレ」になるということです。「一段動詞の五段化」が見られます。 |
p.113 | 実力テスト[3]選択肢1.の「話しことばにある」はなぜ不正解なのでしょうか。 | まず、共通語と標準語の言葉の成り立ちなど社会的な背景などからみると、この二つの言葉には相違があり、その違いをまとめますと、共通語が「異なる方言話者同士においてコミュニケーションを可能にすることば」であるのに対し、標準語は「国家的な権威 により定められた、一定の規範的言語体系」のように解釈することができるでしょう。そして、実力診断テスト[3]で問われているのは、「標準語」の特徴にないものですが、どんな日本語話者のことばも、程度の差こそあれ、何らかの地域的特徴をともなっています。この意味で、そのような背景と全く無関係な「標準語」を話すということ自体、現実からかけ離れていると指摘できます。つまり、標準語を話す人というのは厳密な意味では存在していないと考えるべきであり、「話しことばには存在しない」という特徴が導かれるのです。それに対して「話しことばにある」のは共通語ということになります。 上記内容のテキスト該当箇所は主にp.14の最後の段落から、p.15の「1-17 方言と共通語の関係」章の前までです。あわせてご覧ください。 |
p.113 | 実力診断テスト[16](3)のカテゴリーBについて、解答、解説から「ある一定の文体が求められる」ことが、標準語の特徴であると理解しましたが、この際の文体とは、何を指すのでしょうか? | 「文体」という用語は、ある作家特有の文章表現上の特色を指す際に使われることもありますが、当該選択肢における「文体」は口語体、文語体といった文章の様式のことを指します。 標準語は欧化政策の盛んであった明治期に制定されたものですが、この標準語制定と深い関係があるのが、言文一致運動と呼ばれるものです。言文とは口語体(話し言葉)と文語体(書き言葉)という意味で、当時の日本では、この二つの文体がかけ離れていたため、政府は近代化のためには、文語体を口語体に近づける必要があると考えました。 当時の文語体と言えば、候文体(例:「此の如く御座候」)や漢文体(例:「萬機公論ニ決スベシ」)といった文体で、口語体とはかけ離れていたため、知識階級など一部の人しか理解できないものだったのです。そこで、新しい標準的な文体が必要になり、当時の小説家たちによりデアル体、ダ体、デス体などの文体が試みられました。それがやがて標準的な文体として定着していくようになり、標準語が用いられる教科書などもこのような文体で書かれるようになりました。 このように標準語においては、かつて使われた漢文体、候文体などの文語体は使われず、敬体(デスマス体)や常体(デアル体、ダ体)といった口語体が用いられるようになりました。これが標準語には「一定の文体が求められる」ということの意味です。 テキスト12巻『日本語史/日本語教育史』ではp.23-24において「文体」、p.33-36において「言文一致運動」、「標準語」について触れられていますので、こちらも参考になさってください。 |
p.115 | 実力診断テスト問23の(A)お求めやすいは、求めるに「お」を付けることで客に対する尊敬語ではないのでしょうか?同じく問25の(A)お書きしたも、書くに「お」を付けた尊敬語ではないでしょうか?また、(B)の結構ですは謙譲語ですか? | 問23(A)の「お求めやすい」という表現ですが、これは「お」を付けただけでは、「お掃除する」「お勉強する」のような丁寧語をつくるだけで、尊敬語にはなりません。「お」を付けて尊敬語にしたければ、動詞の後に「になる」をつけなければなりません。そうすることで、「お帰りになる」「お書きになる」のような尊敬表現ができあがるのです。ですから、この例でも「求める」をまず「お求めになる」という尊敬語形にしてから、その後に「やすい」を後続させて「お求めになりやすい」という表現にすれば、正しい言い方になります。 問25(A)の「お書きした」、非過去形に直すと「お書きする」となりますが、「お~する」という表現は謙譲語の表現です。「ただいま、お持ちします」「カードをお返しします」と言った場合、これは自分自身の行為を低める表現になります。この場合「書く」という行為をしたのは担任の先生ですから、この行為は尊敬語を使って高めなければいけません。つまり、尊敬語を作る「お~なる」という表現を使い、「お書きになる」とします。文脈にあてはめれば「お書きになった時間で~」となるわけです。 (B)の「結構です」は、誰かの行為を高めたり、自分の行為を低めたりする表現ではないため、尊敬語でも謙譲語でもありません。「結構」という表現に「です」をつけることによって丁寧に言っている表現ですので、丁寧語ということになります。 |
p.115 | 実力診断テスト16(23) 「お求めやすい」の使い方が間違っている理由は何ですか? |
「お」には、動詞について、 且つ「いただく」「くださる」「になる」「なさる」などを伴って 〈動作主に対する敬語〉として働く用法があります (例:「お越しいただく」「お出いでなさる」「お世話になる」)。 また、「やすい」は、「覚えやすい番号」「飲みやすい薬」のように 動詞に接続して「簡単に~しうる」意味を表わします。 ですから、選択肢Aの「お求めやすい」は、正しくは「お求めになりやすい」のようにすべきなのです。 「お求め」は、名詞「求め」(例:「アメリカの求めに応じる」)に「お」がついたもので、 「お求めの店」(その商品を購入した店の意)のように使われます。 ただ「お求めやすい」は、最近しばしば耳にする言い方で、 企業の広告などに現れることもあるようですが、規範的には正しい言い方ではありません。 とはいえ「お求めやすい」は、TVショッピングなどでこれだけ頻繁に使われていますから、 そのうち許容されることでしょう。 |
p.115 | 実力診断テスト(22)、(25)の解答と解説を見ると、 (a)問題22のC(お待ちしてください)は敬語になっていないので不適切とあります。 (b)一方、問題25のB(結構ですから)は正解ですので、敬語になっており正しい使い方となります。 「結構ですから」が敬語ならば「お待ちください」も敬語ではないでしょうか。 |
(22) (A)校長先生はまもなくこちらに(B)いらっしゃいます。しばらく(C)お待ちしてください。 (A)「校長先生」は「校長」に、(B)「いらっしゃいます」(尊敬語)は「まいります」(謙譲語)にする必要があります。(C)「お待ちしてください」が敬語の形になっていないのは、「してください」の部分です。ここでは、聞き手の「待つ」という行為を高めた敬語の形にしなければならないので、本来ならば、「お~ください」という形にしなければなりません。例えば、「ご自由にお持ちください」(「持つ」の尊敬語)、「どうぞごゆっくりお休みください」(「休む」の尊敬語)なども同様で、「お待ちください。」という形が正しい形です。 しかし、ここでは「お待ちします」(「お~します」)+「ください」と「お~します」という形が使われております。「お~します」は、自分の行為を高める謙譲語の形であり、主語に相当する来客を低めてしまうことになってしまい不適切です。相手の行為を高める尊敬語にするには「お~になります」という形にしなければなりません。したがって「お待ちください」または「お待ちになって下さい」とすべきでしょう。 (25) 先生がプリントに(A)書かれた時間で(B)結構ですから、家庭訪問に(C)いらっしゃってください。 いうこと聞かないうちの子をしかって(D)やってください。 (A)「お書きした」は「書く」を「お~します」という謙譲語にしたものですが、これは主語を低めることになるので、「先生」が低められてしまい、不適切です。尊敬形の「~られる」を付けて「書かれた」(もしくは「お書きになった」)とすべきでしょう。(C)は「来て下さい」を尊敬語化するので、「いらして(いらっしゃって)下さい」とすべきです。(D)は、自分の子供のことについて言うので「しかってあげる」ではなく、「しかってやってください」と「やる」を使うのが望ましいでしょう。 「結構です」という表現そのものが、「敬語」として使い方が適切かどうかは、議論の分かれるところですが、他の選択肢のように誤った形式ではないので、この問題では(B)を正答としてます。 |
p.121 | あいさつとして「どちらまで?」と聞くつもりで“Where are you going?”と英語話者に聞くと、どうしてプライバシーの侵害になるのでしょうか。 | 日本語で「お出掛けですか?」「どちらまで?」などというのは、主にあいさつとしての意味合いが強く、尋ねた話し手側も、聞き手が実際にどこへ行こうとしているのか、聞き出そうとしているわけではありません。これは、聞き手側が「ちょっとそこまで」などと決まった返答をすることからも、単なるあいさつとして受け止めていることが分かります。つまり、聞き手は「お出掛けですか?」「どちらまで?」を真剣な質問としてとらえず、結果として返答も「ちょっとそこまで」というきわめてあいまいなものになっているのです。日本語の場合は、そのような言葉のやりとりが、一種の相互関係の確認の行為のようになっており、実質的な内容のないあいまいな返答であっても、とにかく相手と言葉を交わすことを重んじて「ちょっとそこまで」と言っているのです。 どんな言語にも、あいさつが存在するように、こうした相互関係の確認の行為に当たる言葉のやりとりがありますが、どのような形で見られるかは言語によって異なります。テキストに挙げられているのは、英語には日本語の「お出かけですか?」「どちらまで?」に相当するあいさつ表現が存在しないという例であり、日本語の感覚で「Where are you going?」と訪ねてしまうと、それを英語話者は真剣な質問ととらえてしまい、「特別な理由もないのに、唐突に私的なことを聞いてきた」という不快感を招いてしまう可能性があると説明しているわけです。 |
p.71-72、114 | 実力診断テスト[16](3)およびp.72 3-14について、なぜ正解がD「~シチャッタ」になるのでしょうか。陣内(1992)の表を見ても、抽象的でどのような表現が「気づかない方言」なのかわかりません。「しちゃった」は表の「(2)意味が共通語と同じで語形もかなり近い」に該当するようにも思います。 また、「気づかない方言」という述語は、「誰が」という規定を書いているので、曖昧なように思いますが、述語として本当に共有されている言葉なのでしょうか。テキスト中の、「自分としては自信満々で「共通語」を話しているつもりでも他地域の出身者には理解できない言葉」という定義は、そもそも方言とはそういうものではないかとも思います |
実力診断テスト[16]は「次のうち、「気づかない方言」でないものを一つ選びなさい」ですので、正答である「D「~してしまった」という意味での「~シチャッタ」」は「気づかない方言」ではありません。そのほかのA「しまう」という意味での「ナオス」、B「疲れた」という意味での「エライ」、C「さつまいも」という意味での「カライモ」が「気づかない方言」にあたります。 「気づかない方言」の他の例ですが、新潟方言における「カラ」の一部の用法があります。たとえば、「このたびはたくさんの父母の皆さん{から}来ていただきましてありがとうございました」のような場合です。「カラ」自体は共通語形にもあるわけですが、共通語では「父母のみなさん{に}」となるところで、また、「みなさん{から}来ていただく」のように使っているため、これは「気づかない方言」にあたるでしょう。 「自分としては自信満々で「共通語」を話しているつもりでも他地域の出身者には理解できない言葉」という「気づかない方言」の定義は「方言」というものそのものなのではないかというご指摘ですが、テレビなどで共通語に触れる機会も多い現代においては「テレビから聞こえてくる共通語が自分が話している言葉と違う⇒自分は方言を話している」と認識している部分も多いのではないかと思います。しかし、その中でも、上の例のように、「語形が共通語と同じなのに用法が異なる」という表現があると、それに気づかないことがあるのです。これが「気づかない方言」というわけです。また、「気づかない方言」という術語は、複数の研究者によって使用されている言葉ですので、術語として共有されているとみてよいかと思います。 |
p.73-74 、114 | p.74には「「~ちゃってさあ」のような言い方が(略)方言として存在することは自然なことです」とあります。 東京で生まれた私が、京都の大学に行った時、関西の友人は、私の話し方を真似てからかい半分に「ちゃった」という言い方をよくしました。少なくとも私にとっては、「ちゃった」は「気づかれる方言」でした。 設問は、「「気づかない方言」でないものを選べ」ということですので、選ぶべきは、「気づかれる方言」もしくは「そもそも方言でないもの」であるはずです。「ちゃった」は明らかに「気づかれる方言」(ただの方言)であり、他の選択肢も「気づかれる方言」(ただの方言)ですので、なぜ「ちゃった」が正解となるのでしょうか。 確かに、「ちゃった」はp.73の「気づかない方言」の分類「(2)意味が共通語と同じで語形もかなり近い」には該当するように思われますが、そもそもの「気づかない方言」の定義、「自分としては自信満々で「共通語」を話しているつもりでも他地域の出身者には理解できない言葉」には、該当しないように思われます。(「理解」できるかどうかという観点で考えれば、 「ナオス」「エライ」も他地域の人にもある程度「理解」できる言葉です。 「気づかない方言」は「誰が」気づかないということを表現しているのでしょうか? |
「気づかない方言」とは、異なった方言を話す人と接触することで方言であると方言の使い手本人が気づくものです。つまり、それ以前に当該方言話者が自分が使っている言葉を方言であると「気づかない」(気づいていない)方言のことを「気づかない方言」と呼ぶということです。そのため、ご質問の「誰が」気づかないのかという点について、答えは「方言の使い手本人」ということになろうかと思います。 確かに「~シチャッタ」も「方言の使い手本人が方言であることに気が付いていない」という意味では「気づかない方言」に分類されてもおかしくないようにも思われます。ただ、「気づかない方言」というのは、「本人が気づいていない」ということに加え、相手が「(話し手の意図通りに)理解できない」という点もポイントになります。 他地域の話者の中で「~シチャッタ」は東京出身者の話し方であるという認識はあるかもしれませんが、「何を言っているのかわからない」「自分の知っている意味とは違う意味で使われているようだ」という認識にはならないのではないかと思います。それは、「~シチャッタ」という表現が、p.15、19行目にも書いてあるように「今では日本全国で通用する言い方」だからです。また、テキストには続けてこれを理由に、「~シチャッタ」は「共通語と認めていいかもしれません」とあるように、共通語としての地位を認める見方もあります。これを踏まえると、気づかない方言の(1)-(6)の特徴は「共通語」との比較によるものになっているわけですから、「共通語」としても認識できる「シチャッタ」はやはり「気づかない方言」とはいえないでしょう。 他の選択肢「ナオス」「エライ」も他地域の人にもある程度「理解」できる言葉ではないかというご指摘ですが、確かに「理解できる人もある程度いる」ということはできるかもしれませんが、「日本全国で通用する言い方」とまではやはり言えないでしょう。ただ、最近では「ナオス」「エライ」のようないわゆる「気づかない方言」の代表例のようなものが広く認知されるようにはなっていますから、このような代表例はもう話し手も「気づいている方言」、聞き手も「理解できる方言」になりつつあるということはいえるのかもしれません。 |