NAFL9巻 よくある質問
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該当ページ | 質問 | 回答 |
p.21 | 「リエントリーショック」について詳しく教えてください。 | リエントリーショックは、「復帰ショック」とも呼ばれ、カルチャーショックの一つのタイプとして分類されます。これは、外国で生活し、外国生活に適応していた人が、その後帰国した時に体験するカルチャーショックのことです。 外国では、異文化という意識が働きますが、帰国した場合は、自分がもともといた場所だという意識が強く働きます。そこで、外国生活の間に自分の中で起こった変化や、自分がいなかった間に元の国で起こった変化に気付かず戻ってきてしまうと、「こんなはずではなかったのに」というカルチャーショックが引き起こされてしまうのです。 リエントリーショックは、どのように人と接すればよいか、あるいはどのように振る舞うべきか(行動様式)など、さまざまなレベルで経験されます。 |
p.31 | 「ステレオタイプ」と「スキーマ」の違いは何ですか。 | スキーマは、物事や現象、出来事、あるいは人や集団に対して、経験から何らかの意味付けを行うことでできていく枠組みであり、私たちは日常生活のあらゆる面において、常にさまざまなスキーマを経験的に得て、またそれを用いて物事を効率的に処理しています。もしスキーマが無かったら、出会ったさまざまな物事や出来事、人を、そのたびに「まったく新しいもの」として処理しなければならず、社会生活が成り立たなくなってしまいます。つまり、スキーマは人間が周りの世界を認知し、社会生活を営んでいく上で必要不可欠なものなのです。 それに対してステレオタイプは、物事や現象に対する見方が単純化したものを指します。スキーマは、ある物事に関連する知識の総体として、特定の意味付けの下にその枠が作られ、また新たな経験を通じて常に変化していくものですが、ステレオタイプは「型にはまった考え方」とよく言われるように、固定的な見方であり、物事を個別的にとらえたり、差異に注目した見方ではありません。「イタリア人は明るい」のような例からも分かるように、ステレオタイプは集団に対して付与されることも多く、自分が経験したり見たりしたこともなく、あまりよく知らないうちから「これはこういうものだ」という一方的な見方になりやすい側面を持っています。 |
p.43 | 「バイカルチュラル」とは何ですか。 | バイカルチュラルな人間とは、二つの異なる文化について、行動面において使い分ける能力を持った人間のことをいいます。人間は自分が生まれ育った社会や国の文化を身に付けますが、これを母文化といいます。また、留学生のように成人になって外国で暮らす外国人は、その国の文化(異文化)を意識的に学習し、それに見合う行動を取る場合が多いです。 しかし、人間はある時期(14~15歳)を過ぎると、それ以降に接触した言語や文化を母語や母文化のように身に付けることはできない(「臨界期仮説」といいます)という考え方があります。文化に関しては、外国に暮らす人々は異文化について心情的に理解できなくても頭で理解して、その国の人の行動に合わせながら生活することが多いです。 14~15歳の人間が異文化圏に入った場合は、母文化と異文化の違いを認識した上で、異文化に合わせて行動することが多いです。このように、二つの文化(異文化、母文化)について、行動面で使い分けができる人間をバイカルチュラルな人間といいます。 しかし、ここで大切なのは、上でも述べたように、母文化を既に身に付けている成人は、異文化に対して頭で理解できても必ずしも心情的にも理解できるとは限らないということです。そのため、外国人が日本人と違うところを理解した上で、その人を一個の独立した人格と認めることができれば、それで十分ではないかと思われます。 |
p.48、96 | 「メタ認知」「メタ認知能力」の「メタ」という言葉はどういう意味ですか。 | メタ~[meta~]という言葉は、「超~」「高次~」などと訳されますが、「メタ認知能力」とは「認知能力」より高次の能力ということになります。 テキスト9巻p.48に「人間がなにかをうまくやっていくためには、自分の物事のとらえ方や考え方を一段上からモニターしコントロールする、という技能が必要になる」とありますが、この能力が「メタ認知能力」です。 学習場面で考えると、例えば、単語を覚える場合、「暗唱しながら覚える」「ノートに書きながら覚える」「ダジャレのようにして覚える」「文章ごと覚える」など、いろいろなやり方があります。これらは「認知能力」に含まれますが、このときに、どのやり方が自分にとっては効率的かなど、自分の認知過程をモニターし、制御する能力を「メタ認知能力」といいます。 |
p.68 | 7行目「カルチュー・アシミレーターは、文化同化を目ざした思考実験的な活動」についてお聞きします。「同化」でなく、文化相対主義でどちらの文化も認めるのがよいと他のところで書いてありました。p.69にもそのようにあるので、カルチャー・アシミレーターは異文化の考え方を学ぶためで、同化するためではないと思いますがいかがでしょうか。 | ご質問にあるように、カルチャー・アシミレーターなど、異文化トレーニングの目指す本質的な考え方は「文化相対主義」であり、同化を目指すものではありません。ただ、ここで「文化同化を目ざした思考実験的な活動」と述べているのは、カルチャー・アシミレーターのトレーニング方法、特性を表しているからです。 異文化トレーニングの方法は色々ありますが、このカルチャー・アシミレーターは専門家の力を必要としない方法です。専門家の役割は、文化の異なりについて気づきを促すことですが、テキストp.69にカルチャー・アシミレーターの説明があるように、その文化の違いを「事例を通じて、相手の異文化でとられる解釈・判断を学ぶ」ことがカルチャー・アシミレーターの活動の目的です。そしてこの「相手の異文化でとられる解釈・判断を学ぶ」ためには、なぜそのような解釈をするのかという理由を考えることが必要です。その理由を考えるにあたり、自身の考えに基づく解釈ではなく、対象となる文化の立場、その文化にある考え方を踏まえて、エピソードを理解、解釈する活動がカルチャー・アシミレーターであり、この「相手の立場になり、相手の考え方を踏まえる」という点が「同化」を目指すものと考えられます。 以上のように「同化」することが活動のゴールではなく、異文化理解のために相手の立場になる態度が必要であり、さらにp.69にもあるように一人ではなくグループで様々な考えを共有するこが、異文化理解には重要なのでしょう。 |
p.75 | 異文化間トレーニングの最終段階として「5)統合の段階」という説明があります。しかしながら、一般的に「統合」という言葉が、二つのものを一つにすることだと理解されていることを考えると、二つの文化が個人のアイデンティティーの中で一つになっているという状態が具体的なイメージとして理解できません。例えば、日本の文化的アイデンティティーと、韓国の文化的アイデンティティーが個人の中で一つになっている状態とはどのような状態だと理解すればいいのでしょうか。テキストには「新しい自己意識」「新しい自分」という抽象的な説明がありますが、もう少し具体的に説明してください。 また、この部分については、アドラーの異文化適応の5段階における「5.独立」の段階~文化の違いをメタ認知的に理解して、文化を超えた個人として相手を見られるような段階が、異文化間トレーニングのゴールであるとした方が理解しやすいのですが、そのような理解でいいのでしょうか。 |
異文化に適応していく過程については、様々な研究者がそのプロセスを説明しています。アドラーの異文化適応の5段階もその一つで、ご質問あるように、文化の違いをメタ的に理解した上で、異文化の中、新しい状況にあっても適切に対応できるようになる段階のことです。細かい解釈で異なる点はありますが、p.75にある「文化を客観的に見直し」「自分のあり方を明確にする」というのは、アドラーのいう「文化の違いをメタ的に理解する」という点と共通しています。p.76の異文化と折り合いを付けながら「新しい自分になっていくこと」という点は、アドラーは「個人の成長」と説明しており、共通した点が多いので、理解の参考にしていただいて良いかと思います。 ご質問に「日本の文化的アイデンティティーと、韓国の文化的アイデンティティーが個人の中で一つになっている状態は、どのような状態だと理解すればいいのでしょうか。」とありました。ここでの「統合」は二つが一つになるという意味ではなく、日本の文化的アイデンティティーと韓国の文化的アイデンティティーそれぞれをメタ的に理解し、自文化に対しても異文化に対しても新しい解釈をすることができるようになることであり、この新しい解釈を「新しい自己意識」と、新しい自己意識を生み出すことを「統合」と述べています。 |
p.125 | 問題22の正解はA.とのことですが、疑問を感じます。A.異文化接触によって不利益を被る人を第一義的に考えないとすれば、誰を第一義的に考えるべきでしょうか。C.自分の文化と異文化を「統合する」ことは、特に大人になってからは不可能と思いますがいかがでしょうか。文化相互主義により適切な知識を持って適切な行動をとることが重要であることは理解していますが……。 | この問題は、9巻のp.74以降で述べられている異文化間トレーニングの段階を根拠にした問題となっています。選択肢Aが不適当なのは、p.75で述べられている「3)被差別者に対する過度の思い入れの段階」になるからで、「第一義的」という点が不適当になります。確かに「誰を第一義的にしたらいいのか」という疑問も浮かぶのですが、誰を「第一義的」ということではなく、どの文化もどの人に対しても「客観的」な態度で接する「超越した接し方」が、文化相対主義的な考え方に基づく行動になります。 選択肢Cの「統合」というのは、p.75「5)統合の段階」の「統合」になります。ですから、ご質問にあるような異文化を完全に受け入れることとは意味が異なります。ご質問の通り、大人になってから完全に受け入れて同化することは、自身の文化的アイデンティティも確立されているので、不可能でしょう。この「統合」はテキストにある「それまでに持っていた自分の文化と新しい文化の折り合いをつけ、自分の幅を広げ、新しい自分になっていくこと」の「折り合いをつける」という意味に近いでしょう。 |