NAFL4巻 よくある質問
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該当ページ | 質問 | 回答 |
p.86 | タスク17(2)についてです。最近私の職場では、休日出勤の交代依頼をこれほど遠回しにお願いしないような気がします。もちろん話者と受け手の関係性によってもずいぶん違うとは思いますが。職場は日本人だけで、年齢、性別は多様です。私はどちらかというと人にものを頼むのが苦手で、回りくどく言い訳が多いのですが、まわりの人はもっとストレートに依頼をしているような気がします。遠慮がちに言っているつもりでも、人によっては回りくどく感じ、「それで?何がいいたいの?結論は?」のような人もいます。 日本の文化やコミュニケーションのあり方も変化をしてきているように感じますがいかがでしょうか。そのうえで、外国人にどのようにこのことを伝えるべきでしょうか。 |
質問者の方が考察されたように、「依頼」という言語行動は、個人によって遠回しに(遠慮がちに)する人もいれば、直接的に依頼をする人もいますし、依頼をする相手との関係性によっても大きく異なります。タスクにあったような休日出勤を代わってもらう状況においても同じです。 タスクでは、ご指摘のようにかなり遠慮深い依頼の仕方になっていますね。テキストp.84-85で説明があるような「場作り」(「あのう」)、内容暗示(「申し訳ないと思うんだけど」)が使われ、さらには自分の事情(休日出勤に当たっていること、子供を病院に連れていきたいこと)を話しただけで、結局、「代わってもらえる?」など直接的な依頼表現は出てきません。相手がこれから「依頼」されることを察し、「代わってあげる」と依頼の承諾をし、依頼が成立しています。確かにもう少し直接的に依頼をすることも多々あるでしょう。この状況の場合、どのぐらい遠慮深く依頼するかには、個人の性格、相手との関係性に加え、「自分も相手の休日出勤を代わってあげたことがあるのか」ということや、「休日出勤を代わってもらうのは初めてなのか、何度もお願いしたことがあるのか」という背景によっても違いが出てくるでしょう。 様々な背景によって依頼の仕方に違いが出るように、依頼される側の受け止めも様々です。遠慮がちな依頼を好ましく感じる人がいる一方で、まわりくどいと感じる人もいるでしょう。このように依頼の仕方やその受け止めは人それぞれなので、「依頼というコミュニケーションの在り方が変化している」とは言いがたいです。例えば、p.84「6-13 場作り」で書かれているように、昔は「旦那」「奥さん」などの呼びかけが使われていたのに対し、最近はあまり使われないなど、言語表現のレベルで時代とともに変化している部分はあるかと思いますが、「どのぐらい遠慮深く依頼をするか」という点についてはやはり個人の考え方や依頼をする相手との関係性などによるところが大きいでしょう。 学習者にどのように伝えるかという点ですが、「依頼」の仕方やその受け止めは人それぞれで、依頼の状況も異なりますので、「遠回しに言うのが正しい」「直接的に言うのが正しい」ということを提示することは難しいです。しかし、依頼によく使われる表現、または談話のパターンというものはありますから、そのような表現を教授すること、また色々な依頼の談話パターンを見せていくことはとても大切なことです。 学習者には、依頼をする際の状況や相手との関係性をよく考慮した上で、どのような依頼が適切かを考えさせていくことが大切でしょう。また、日々身の回りで行われている依頼という言語行動、またそこで使われる表現に注意を向けさせ、観察をしながら、自分ならどのような依頼をするかということを考えさせるとよいかと思います。 |
p.89 | 「結婚することになりました」についてお尋ねします。自分で決めてするのになぜ「なる」という自動詞を使うのですか。「自分だけでなくみんなが支持してくれている」ことを強調しているとありますが、他にも理由がありますか。なぜ「皆が支持してくれている」を強調する必要があるのかと外国人学習者に聞かれたら、どのように答えればいいですか。 | 「結婚することになりました」というように、自分で決めたことに対して「なる」を使うのはなぜかという質問です。テキストp.89に説明がありますが、「「なる」という自動詞を使って自分の顔をださないようにする」、また「「自分がする」ということを表面に出さない」(p.89)ということです。「結婚することにしました」と言うと、本人たちの「決断」を示すことになりますが、「結婚することになりました」と言うと、これから結婚するということを「すでに決まった事実」または「計画」として示すことができます。そのため「自分だけでなくみんなが支持してくれている」というニュアンスが生まれてくるわけです。 例えば、結婚する二人が親に報告する際には、「自分たちの意志、決断」を表に出し、「私たち、結婚することにします!」というのは適切に感じられるでしょう。しかし、その後「結婚する」ことが皆の支持を得、揺るがぬ「計画」になり、周囲に報告する場合には「結婚することにします」と「自分たちの意志、決断」を表に出すより、「結婚することになりました」と「すでに決まった事実」「計画」として報告する方が適切に感じられるでしょう。 「~ことにする」「~ことになる」という表現の選択は話者が「結婚する」ことについてどのように認識しているかを反映するものです。つまり、「自分たちの意志で結婚するのだ!」ということを強調したいのか、あるいは一つの事実、計画として自分が「結婚する」ということを伝えるのかということです。したがって、「~ことになる」という表現を使うのは「皆が支持してくれていることを強調する必要がある」というよりは、むしろ「話者の「結婚する」ということに対する認識、またはどう相手に伝えたいかを反映している」と捉えた方がよいです。そのため、学習者には「~ことにする」「~ことになる」という表現の違いを示した上で、それぞれのニュアンスを理解できるようにすることが大切でしょう。 |
p.138 | 実力診断テスト(2)についての質問です。正解が「C.「言語行動」は、一人の人が行う思考の行動も含めて表す述語である」であることはわかりましたが、「思考の行動」という言い回しは普通使わないので、○をつけていいものか悩みました。なぜ、このような言い回しを使っているのでしょうか。一般的には、「思考」は「行動」と並列、もしくは対立する概念だと思いますが、あえて「思考の行動」という表現を使われた理由を教えてください。「言語行動」の「行動」と合わせるために「行動」という言葉を使ったのでしょうか。それとも、日本語教育の分野では、「思考」は「行動」であるという認識が共有されているのでしょうか。日本語に敏感であることを求められている日本語教育のテストで、このような耳慣れない言い回しを見て結構悩みました。 | 正答肢の「思考の行動」という言い回しについての質問です。まず、言語行動とはp.9の4-5行目にあるように「言語によって人が行う思考・表現・伝達の行動、および、これに対応する理解・受容・反応の行動」を意味する用語です。つまり、「思考(すること)」「表現(すること)」「伝達(すること)」「理解(すること)」「受容(すること)」「反応(すること)」は全て言語を使って行われる「行動」であると定義されます。このことから、選択肢Cの文においても「思考」を「行動」と捉え、「思考の行動」という言い回しが使われています。たしかに、「思考」は自己の中でなされるものと考えると「行動」という対外的に行われるイメージの強い行為とは相反するように思えますが、少なくとも「言語行動」という概念の範囲においては「思考すること」も「行動」と捉えます。 |
p.140 | 実力診断テスト(11)についての質問です。カテゴリーD.の「ある場面でお礼を言うかどうか、質問をするかどうかなど、言語行動の有無についての情報は、言語行動の調査であるのだから、これまでも得られていない」という文章が理解できませんでした。 「言語行動の調査であるのだから」というのはどういう意味でしょうか。「「言語行動の調査」というものは、これまで何も得られていない、だから、お礼や質問についての情報も得られていない。」という意味の文章だと、理解すればよろしいのでしょうか。これが不正解だということはすぐわかりましたが、むしろ、「ある場面でお礼を言うかどうか、質問をするかどうかなど、 言語行動の有無についての情報についての情報「も」、「言語行動の調査であるが」「これまでは得られていない」」という文章であれば、日本語として理解できます。あえて、「言語行動の調査であるのだから」というわかりにくい言い回しを使われた理由を教えてください。 |
当該選択肢の文意についての質問です。言語行動とは「言語によって人が行う思考・表現・伝達の行動、および、これに対応する理解・受容・反応の行動」です。そのため、言語行動の調査というと、人が言語によってどのような思考・表現・伝達を行っているのか、またそれに対応してどのような理解、受容、反応の行動を行っているかを知ることができる調査だと思い浮かべるでしょう。そのように考えれば、「言語行動の調査」をすると、「ある場面でどのようにお礼を言うか」「どのように質問するか」といった言語形式に関する情報は得られるけれども、ある場面でお礼を言うかどうか、質問をするかどうかという行動の有無を知ることはできないのではないかとも考えられるでしょう。これが選択肢Dの文の意味するところです。つまり「言語行動の調査なのだから、「どのように言うか」という言語形式の情報は得られても、「言ったか言わないか」という情報は得られない」ということです。 しかし、この選択肢は誤答ですので、上の想定は間違いということになります。「言語行動」というと、言語形式の要素に真っ先に注意が向きますが、実は人々は日々「言語形式」だけでなく、「言うか言わないか」といった要素にも気を配っており、それは言語行動の調査によっても確認することができるのです。(この点については第4章第1節で詳しく説明されていますので、ぜひご確認ください。) 確かに、上で示したような「言語行動の調査」のイメージを想定できないと、文意がわかりにくい選択肢でしたね。しかし、上記のような想定をした上で選択肢を読み直すと、日本語としても自然な文だと感じられたのではないでしょうか。 |
p.140 | メタ言語、メタ言語行動がよく理解できません。言語行動とは言語表現と考えもいいでしょうか。 | メタ言語、およびメタ言語行動とは何か、また「言語行動」は「言語表現」と言い換えられるかという質問です。まず、メタ言語から。わたしたちは、言葉で別の言葉を説明したり定義したりすることがあります。例えば、「リンゴは英語でapple と言う。」とか、「吝嗇(りんしょく)とはケチという意味だ。」とかいう具合にです。このような場合、説明の対象となる言葉を〈対象言語〉、説明する側の言葉を〈メタ言語〉と呼びます。「リンゴは英語でapple と言う。」という文では、「リンゴ」が対象言語、「英語でapple と言う」がメタ言語として働いています。「吝嗇とはケチという意味だ。」では、「吝嗇」が対象言語、「ケチという意味だ」がメタ言語として働いています。 「メタ-」は、「超~」「高次~」などと訳されることもあります。「メタ言語」とは、〈他の言語と次元の異なる言語〉とか、〈通常の言語よりも一段高い言語〉といった意味を持っているのです。メタ言語が、なぜ次元の違う・一段高い言語であるかというと、〈言葉について語る言葉〉だからです。例えば「机の上にリンゴがある。」という文は、現実の状況や場面について語っていますが、「『机の上にリンゴがある。』という文は文法的に正しい。」という文は、現実の状況や場面についてではなく、別の文について語っています。ここで、「……という文は文法的に正しい」がメタ言語の働きをしているわけですが、「『状況や場面について語っている文』について語っている」ことから、次元の違う・一段高い言語であると言えるのです。 このような「メタレベル」の働き(次元の異なる・一段高い機能)は、言語行動の中にも見出すことができます。〈言語行動〉という概念は(研究者によって若干の違いはありますが)非常に広い意味を持ちます。そもそも、わたしたちが言葉を使う(話す・聞く、書く・読む)こと自体、行動であると言えます。また、私たちは、何の目的もなく単に言葉を使うのではなく、常に言葉を使って何かを行っているのです(伝達する、命令する、約束する、理解する、記録するなど)。言語行動という概念は、それらすべての行動を意味することができます。一方、≪言語表現≫はある≪言語行動≫を行うのに使われた表現を指します。例えば、「「勉強しなさい。」と言って「命令する」こと」は≪言語行動≫ですが、そこに使われる「勉強しなさい。」という表現自体は≪言語表現≫になるわけです。 ご質問の≪メタ言語行動≫は、「談話の中で自分や他人が行った言語行動や、これから行おうとする言語行動に言及する表現を行う言語行動」と言えます。例えば、「本日はまことにありがとうございます。」というのは、言葉を用いて〈お礼〉という行動を行っている言語行動の例です。一方、「会に先立ちまして皆様に一言御礼申し上げます。本日はまことにありがとうございます。」といった場合、直接〈お礼〉を言っているのは「本日はまことにありがとうございます」という部分です。「会に先立ちまして皆様に一言御礼申し上げます」という部分は、これから自分が行おうとしている言語行動を説明・注釈していると見られます。言い換えれば、「これから全員に対してお礼という言語行動を行う」と予告しているわけです(予告するというのも一種の行動ですから、これも言語行動であると言えます)。同じように「ちょっとおうかがいしたいのですが」や「折り入ってお願いがあるのですが」なども、これから〈質問〉や〈依頼〉という言語行動を行うと予告するメタ言語行動の表現であると言えるでしょう。 ちなみに≪メタ言語行動≫は≪メタ言語表現≫と言い換えられるかどうかですが、これも≪言語行動≫と≪言語表現≫の違いで説明したように、「「ちょっとおうかがいしたいのですが」と言って「質問」すること」は≪メタ言語行動≫ですが、「ちょっとおうかがいしたいのですが」という表現自体は「メタ言語行動の表現」ということになります。「メタ言語行動の表現」という言い方はテキストでたびたび出てきますが、これを単に≪メタ言語表現≫と呼ぶこともあります。 |