NAFL18巻 よくある質問
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該当ページ | 質問 | 回答 |
p.15 | タスク1については、「みんなの日本語 初級1本冊」を購入してざっとみました。オーディオリンガルメソッドによる文型練習を重視した教科書なのですね。 他にも初級者に対してよく使う教科書があればお教えください。 実物をみてみたいと考えています。 |
ご質問の通り『みんなの日本語』はオーディオリンガルメソッドによる文型練習を重視した教科書です。 『みんなの日本語』については、オーディオリンガルメソッドの批判と同様に、「機械的な練習が中心だ」「コミュニケーション能力がつかない」など、批判はありますが、体系的に日本語を学べる、各国語版の文法翻訳があるなど、多くの優れた点があるので、日本はもちろん世界中で使われている初級の教科書です。ですから、まず『みんなの日本語』を教師用指導書や補助教材も含めてじっくりと教材研究することは、今後に役に立つでしょう。 また、その他の初級の教材についてですが、 上記に述べたようにオーディオリンガルメソッドの批判と共に、その他の教授法を踏まえたテキストも多く出版されております。そのため、すべてをこちらでご紹介することは難しいのですが、以下のサイトから様々な教材を検索することができます。ご参考になさってみてください。 https://www.bonjinsha.com/wp/nihongokyouzailist |
p.45 | 「エピソード記憶」と「意味記憶」の違いを詳しく教えてください。 | 「エピソード記憶」は「出来事関連記憶」ともいわれ、個人的な経験やエピソード(挿話)によって構成されている記憶のことを指します。例えば、「金曜日の夜7時にあなたは何をしていましたか」と聞かれると、金曜日の午後5時から7時までに起こったすべてのことを思い起こして、(夜7時に)何をしていたかを思い出そうとするかもしれません。つまり、求められている情報を見付けるために、そこに至るまでの一連の事件、挿話を集めようとするのです。「解釈に至るまでの過程」というのは、こうした一連の事件、挿話を思い起こす過程を指し、この一連の事件、挿話の情報の総体すなわち、ある出来事に関連付けられた記憶の総体が「エピソード記憶」なのです。 一方、「意味記憶」というのは、語が意味に従って構成される記憶を指します。私たちは生まれてからさまざまな言葉を記憶しますが、ただむやみに記憶しているというわけではありません。例えば「スズメ」は「鳥」、「バラ」は「花」といった具合に、私たちは身の周りにあるさまざまな事物を、意味に基づいて整理、分類しています。これらの整理・分類された言葉の、総体が「意味記憶」とされるものです。事物が意味別に分類された辞書のようなものだと考えると分かりやすいでしょう。 |
p.54 | P54にある教師の説明にて、「山田さんは中国語を話します」を可能文に変える場合、目的格の「を」を「が」に変えて「山田さんは中国語が話せます」とするようにと書かれてあります。なぜ「を」を「が」に変える必要があるのでしょうか。 「中国語」は「できる」の主格であるため「が」になると思いますが、山田さんを主語と考えると直接対象格の「を」を用いても問題ないように思えます。 もちろん普段の会話で、「が」も「を」もどちらを使ってもあまり支障はありませんが、「が」が一般的に使用される文法的を意味を教えてください。 |
「山田さんは中国語を話します」のような他動詞構文を可能文に変える際に、対象格「を」を「が」に変える理由は、可能動詞の性質にあります。 例えば「話します」は「動きを表す」動作動詞にあたるわけですが、「話せます」という可能動詞は、「「話す」ことが可能である」という「状態」を表すため、状態動詞に分類されます。状態動詞を述語とする文は状態述語文に分類されるわけですが、状態述語文においては、対象格にガ格が使われるため、「を」を「が」に変えるというのが可能文において対象格を「が」とする理由です。 状態述語文において、対象格にガ格が使われる構文の他の例としては、「私は~が好きだ/嫌いだ」という好悪表現や、「私は~がVたい」(例:「私はラーメンが食べたい」)という願望表現があります。 ただし、ご指摘のように、可能文の対象格に「を」が使われる例も多々見られ、「が」でも「を」でも可となることが多いのが実状です。日本語初級テキストでは、可能表現の対象格について「が」で標示されているものが多いですが、「を」も可能と記載しているテキストもあります。 |
p.100 | 33)に「「です・ます体」で答えさせているか。」とありますが、そうでなかった場合は明示的もしくは非明示的方法で訂正要求したほうが良いのでしょうか? 文型練習の際では、通常の会話体が入った方が良いように思いますし、肝心の習得すべき文型に集中できなくなる恐れもあるのではないかと思います。 |
「です・ます体」で答えさせるかどうかについては、「習得すべき文型に集中できている」かどうかがポイントで、練習の目的は、どのような方法で訂正要求するかにかかわります。p.98-100で述べられているのは、口頭練習の際の注意点なので、口頭練習の全体像をp.62にあるフローチャートを見て再度確認してみましょう。 順を追ってみていきます。「正確さのための機械的な練習」であれば、 正確さにつながる「形」が大切です。ですから、「です・ます体」で練習しているときに、普通体の形が入ってしまうと、それは「形」が異なりますので、明示的に修正する必要があるでしょう。 例えば、「食べます」→「食べません」、「行きます」→「行きません」 などのように、肯定形を否定形にする練習のような機械的な形の練習の場合、普通体の「食べない」のような形がでてくると、「「ます」を「ません」にして、否定の形にする」という本来の目的からずれてしまいますので、「食べません」と明示的に修正したほうがよいでしょう。 しかし「正確さと意味理解の確認のための有意味な練習」の場合は、「食べない」という形が出てきても、意味理解に支障がない場合は、会話の流れを遮らない程度に暗示的に訂正するのがよいでしょう。 さらに「流暢さと談話の流れを学ぶ談話練習」や、「ロールプレー」や「タスク活動」の場合は、人間関係など形式以外のことを意識しなければなりません。その場合は、普通体が適している場合もあれば、「です・ます体」が適している場合もあるでしょう。そのような場合は、改めてなぜそのような文体が適しているのかを考える時間を作る必要もあるかもしれません。 以上のように、「練習の目的は何か」という点から、訂正する必要があり、また訂正の方法もその都度考えなければならないでしょう。 |
p.101 | 45)コミュニケーションギャップを利用したタスク活動などでとありますが、 インフォメーションギャップを利用したタスク活動などでではないでしょうか? 45ページの記述からの類推です。 |
ご指摘のように、45)は「コミュニケーションギャップを利用したタスク活動」ではなく、「インフォメーションギャップを利用したタスク活動」が正しい表現です。ここでは、タスク活動において、学習者が互いに違う情報を持つこと(=インフォメーションギャップ)により、お互いに質問をし合って情報の穴を埋めていく作業のことを言っています。そしてそのタスク活動が「意味理解のための相互交渉」を学習者からどのぐらい引き出せているかという点がポイントとなっています。 コミュニケーションギャップとは、ある物事に対する認識の違いや価値観の相違などにより、会話者間で生じてしまう食い違いのことですから、「インフォメーションギャップ」とは別の用語になります。 |
p.140 | 実力診断テスト18[17]教案作成で受身文の用法で、ほかと用法の異なる文はどれですか? A能動文:滝が私を打つ。直接受身:私が滝に打たれる。 B能動文:弟が父が大事にしていた冷酒を飲んだ。間接受身:父は弟に、大事にしていた冷酒を飲まれた。 C能動文:母が(彼女の)彼からのメールを読んだ。間接受身:彼女は母に、彼からのメールを読まれた。 D能動文:(誰かが)家の隣に大きなスーパーを建てた。間接受身:家の隣に、大きなスーパーが建てられた。 Aは、直接受身、B、C、Dは他動詞であり、いずれも迷惑受身(間接受身)ではなく、持ち主の受身((間接受身)ではないのでしょうか? |
第10巻「日本語の文法―基礎」の第6章第4節「日本語の受身文の特徴(その2)」(p.68-70)のp.69の下の方に受身文の種類がまとめられています。直接受身、持ち主の受け身(身体部分)、持ち主の受け身(その他)、間接受け身の4種類です。 当該問題のAはご指摘の通り、直接受身に分類される受身文です。B、Cについては それぞれ、受身文において「父が大事にしていた冷酒」、「彼女の彼からのメール」という「物」が主語にならずに「冷酒」、「メール」の持ち主である「父」「彼女」が主語となっています。これはテキストp.69の分類から言えば、「冷酒」「メール」は身体部分ではありませんので、「持ち主の受け身(その他)」となります。Dは主語が書かれていませんが「私は家の隣に大きなスーパーを建てられた。」と「私」が主語になります。そして「大きなスーパー」は私の所有物ではありません。つまり、「私」は「大きなスーパー」の持ち主ではありません。そのため、これは「持ち主の受け身」ではなく、「私は雨に降られた」「赤ちゃんに泣かれた」と同じように「間接受身」という分類になります。「間接受身」は「降る」「泣く」のような自動詞だけでなく、他動詞からも作ることができます。 そして、この「持ち主の受け身(その他)」(B、C)と「間接受身」(D)というのはテキストp.69の最後の5行に書かれているように、この二つを両方「間接受身」とする考え方もあります。それはなぜかといえば「持ち主の受け身(その他)」も「間接受身」もどちらも「迷惑」という意味が発生するからです。つまり、文の構造から「迷惑である」という含意を感じさせるという意味で「「持ち主の受け身(その他)」も「間接受身」」も同じ機能を持ちます。p.70で紹介されているようにこの二つの受身文を「はた迷惑の受身」と呼ぶことがあります。これは受身文の主語となる人物は直接何かをされたわけではなく、「弟が冷酒を飲んだ」「母がメールを読んだ」「(誰かが)大きなスーパーを建てた」ということが起こっただけなのに、「受身文の主語となる人物」にとってはそれが「はた迷惑」であるからです。 以上のことから、Aは直接受身文であり、自ら滝に入り「打たれている」という意味で、迷惑を受けているという意味はありませんが、B、C、Dは(はた)迷惑を表すことから、Aだけが他の用法と異なる文であるといえます。 |