NAFL12巻 よくある質問
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p.7 | テキスト12のp.7とテキスト14のp.31の記述についての質問です。 日本語の時代区分に関してで、テキスト12のp.7では「鎌倉時代と鎌倉時代の間、南北朝時代を緩衝として、それ以前を古代、以降を近代とすることができます。」とありますが、テキスト14のp.31では「いちばん、大まかに分けた場合、古代と近代の分かれ目が室町時代になります。」とあります。いずれが正しいのでしょうか。 |
日本語の時代区分は14巻p.118にもありますように、はっきりとした区分はなく、おおよそのものと捉えていただければと思います。そのおおよその区分が、12巻『日本語史/日本語教育史』p.8に、日本語の時代区分の表として載っており、p.9以降に時代的な特徴が述べられています。中古(平安時代後期)から中世(鎌倉時代)にかけて、文学書だけだった日本語から庶民の日本語へと変化がおきたことが、よりお分かりになるかと思います。徐々に起こった変化ですので、研究者間でも異なりはありますが、社会全体の流れと言語の変化の関わりを時代背景と共に考えていただければと思います。 |
p.9 | 「ハ行転呼音」について、具体的な説明をお願いします。 | 中古初期(平安時代)は、ハ行音をファ行音(無声両唇摩擦音)で発音していました。それが、徐々にワ行音(両唇接近音)で発音するようなった現象のことをハ行転呼と言います。次のような例があります。 うへ → うえ かは → かわ かほ → かお これは、くちびるのゆるみと関係していますが、「摩擦」させることよりも「接近」させることのほうが、ハ行を発音する際には(平たい言葉で言うと)楽で、そのためくちびるを使って発音する音が退化していったことから、自然とこのような変化があったと言われています。このような現象を「唇音退化」と言います。 詳しくは、8巻『日本語の音声Ⅱ』p.81以降に載っていますので、こちらも参考にしてください。 |
p.12 | ひらがなとカタカナでは、どうして字源が違うのですか。 | テキスト13巻「日本語の文字表記」第2章にもありますように、ひらがなははじめから1音節に一つの字体というように整理されていませんでした。現在のようになったのは1900年の小学校令施行規則によるものです。テキストの表はいくつかあった変体仮名から最終的に統一された字体の字源のみを示しています。つまり、ひらがなの字源にもカタカナの字源にも同じものが含まれていましたが、長い歴史の中で中心的に使われるものがひらがなとカタカナでは異なり、結果的に字源が異なったのです。 ひらがなについて言えば、鎌倉初期の藤原定家には字体を意図的に使っていた跡があり、語頭に来る仮名、行末に来る仮名、区切れを示すための仮名というように1音節に対して多くの字体がありました。ひらがなの字源を示すと、「あ」には「安」「阿」「愛」「悪」、「い」には「以」「意」「伊」「移」などです。 カタカナも同様に、1音節に対して多くの異体字がありました。仏教の宗派や研究者の学派によって異なることもありました。それが徐々に異体字が少なくなり、統一される傾向になりました。テキストに載っている表は、ひらがなと同様に1900年に統一されたものの字源です。統一される前には「ア」には「阿」「安」を字源とするものがありました。 ですから、テキストに載っている表だけを見ると字源が異なるように見えますが、それは長い歴史を経て数ある異体字の中から統一して使われるようになったものだけを取り上げているためです。 下記の文献に、文字史の説明や巻末の字体表に詳しく載っていますので、参考にしてください。 <参考文献> 沖森卓也編(1989)『日本語史』桜楓社 |
p.15 | 「近世」の二つ目「*仮定の表し方が、「未然形+ば」から「已然形+ば」に変化した。」についてです。実力診断テスト(9)でも問題になっていますが、具体的にどんな文(未然形+ば)がどう(已然形+ば)変わったのですか。未然から已然に変わっても意味は変わらないのですか。古典の文法がわかれば理解できるのかもしれないのですが。 | 古典文法では、 未然形 + 「ば」 ⇒ 仮定条件 已然形 + 「ば」 ⇒ 恒常条件 と、接続助詞「ば」の前の形が、未然形か已然形によって意味が異なります。 「仮定条件」とは、仮定から予想される結果を導く表現で、「恒常条件」とは、ある条件下で必ずその結果が起こるという意味を表す表現です。 例として、動詞「ある」で考えてみます。未然形+「ば」は「あらば」で、意味は「~があるなら、あったら」となります。已然形+「ば」は「あれば」となり、意味は「~があるので、~があるときはいつも」となります。この未然形の「あらば」が、だんだん仮定を表す意味で已然形の「あれば」に変わるようになった現象を指しています。現代においても「すきあらば」などという言い方があります。これは「未然形+ば」が仮定条件を表していたころの名残と言えます。 |
p.15 | 「上二段活用」「下二段活用」とは何ですか。 | テキスト12巻「日本語史/日本語教育史」p.15「1-9 文法の変遷」を見てお分かりになるように、古語では最大9種類あった活用形式が、時代を経るうちに集約されて今日では5種類となっています。例えば、上一段、下一段の大半は、昔の上二段、下二段が一段化したものです。文語で唯一の下一段動詞だった「蹴る」は今日では五段活用に合流しています。ナ変、ラ変も五段に合流しました。ご質問の上二段動詞の活用と下二段活用の例は次の通りです。 ◇ 上二段活用動詞 上二段活用は、語尾の母音が、五十音図のイ、ウの段に活用するものです。 例:カ行上二段活用の動詞「過ぐ」 未然 過ぎ(i)ず 連用 過ぎ(i)て 終止 過ぐ(u)。 連体 過ぐる(uる)こと 已然 過ぐれ(uれ)ど 命令 過ぎよ(iよ) ほかに、「生く」「落つ」「老ゆ」があります。 ◇下二段活用動詞 上二段活用は、語尾の母音が、五十音図のエ、ウの段に活用するものです。 例:「受く」 未然 受け(e)ず 連用 受け(e)て 終止 受く(u)。 連体 受くる(uる)こと 已然 受くれ(uれ)ど 命令 受けよ(eよ) ほかに、「得(う)」「逃ぐ」「果つ」「聞こゆ」「植う」などがあります。 |
p.17 | 実力診断テスト(11)の答えがBになっています。Aのコップもポルトガル語から借用されたと書いてあるものもありました。答えが2つあるのではないでしょうか。 | この解答は、p.17の表の時代と関係があります。「コップ」は近世に蘭学との関係でオランダ語が借用されたと記されています。歴史的に「コップ」が日本に伝わったのは江戸時代、つまりこの表で言う中世であり、オランダとの通商があった長崎を中心に「コップ」が伝わったとされています。 ご質問の通り、語源をみるとポルトガル語のcopoからという説もあります。この問題では実際に「コップ」が使われていた時期から鑑みて、「コップ」はオランダ語からの借用としています。ただ、解答、解説としてその点の説明が不十分であったかと思います。次回の改訂の参考にさせていただきます。 |
p.52 | 新方言とネオ方言についてです。よく似ているので、区別がつきにくいです。新方言は、方言のなかで形が変わって、新しい方言ができることで、ネオ方言は、標準語と方言が混ざって新しい言い方ができることと区別していいのでしょうか。 | 「新方言」は井上史雄氏によって、「ネオ方言」は真田真治氏によって提唱された方言の概念ですが、真田氏は「ネオ方言」について新たに以下のように述べています。 「「ネオ方言」と「新方言」との違いは、ネオ方言があくまでスピーチスタイルとして考えられているという点です。ですから、使用の場面・文脈を無視して、個々の要素を独立に取り上げることはできません。たとえば、往々、方言形「けーへん」と標準語形「来ない」との混交形「こーへん」を語例として挙げるのですが、それは「こーへん」をその中間スタイルにおける指標の一つとして例示しているだけであって、ある場合には「こーへん」がネオ方言ではない運用状況も存在するでしょう。この点が新方言との基本的な相違です。新方言は具体的な要素を指すものなので、その要素の数を数えることができます。たとえば、井上史雄+鑓水兼貴編著『辞典<新しい日本語>』(東洋書林)は、新方言を集成したものですが、そこには「どの地域でも(東京も含め)少なくとも二桁の新方言事象が見つかると考えられる」などといった解説があります。一方、ネオ方言コードの記述は、具体的な運用場面、コンテクストから帰納的に行わなくてはなりません。それは必然的に談話テクスト集のような記録形態のものになるでしょう。」 つまり「ネオ方言」とは、12巻p.56でも述べられているように、「スピーチスタイル」のことであり、文脈の中で「こーへん」がネオ方言になったり、ならなかったりする場合もあるということです。一方で「新方言」については、16巻p.77に以下の3つの条件が掲げられています。 1・世代が若くなるほど、その使用が多いこと。 2・共通語とは語形が異なること。 3・使用者自身も方言扱いしていること。 この3つの条件を満たして「新方言」と定義されるのです。その点を真田氏は「要素の数を数えることができる」と述べています。 ご質問で、ネオ方言について「標準語と方言が混ざって新しい言い方ができることと」と整理されていましたが、これは新方言もネオ方言も共通した考え方です。ただ、新しい言い方について、どのような文脈で現れているのかという点を細かく観察した場合は「ネオ方言」としてとらえ、上記の3つの条件に当てはまる言葉なのかという点から考えた場合は「新方言」であると言えるかと思います。 いずれにせよ、真田氏自身も「個々の具体形式だけを取り上げて、それを「新方言」か、それとも「ネオ方言」か、などと問うことはナンセンスなわけです。」と述べているように、「新方言」「ネオ方言」とはっきり区別することはできないのですが、「新方言」については、現在のところ上記の3つの条件がはっきりと示されている点に注目すると良いかと思います。また16巻第3章にも方言についての記述がありますので併せてご確認ください。 |
p.91 | オーラルメソッドについて具体的に教えてください。「言語記号を母語の翻訳によって理解するのでなく、記号と意味を直接に結びつける能力を養う」教授法だということはわかりましたが、具体的にはどのように教えるのですか。 | パーマーにより提唱されたオーラル・メソッドの具体的な教え方についての質問です。まず、オーラル・メソッドとは何かですが、「言語記号を母語への翻訳によって理解するのではなく、記号と意味とを直接的に結び付ける能力を養う」教授法ですが、この説明ではあまりピンとこないかもしれません。これはつまり、言語教育においては言語の持つ体系を理解するよりも、言語を実際に運用できる能力を養うことが大事であるという考え方です。 パーマーは、運用に使われる技能を第一次技能(「話す」「聞く」)と第二次技能(「読む」「書く」)とに分類し、第一次技能、つまり「話す」「聞く」の習得が重要だとしました。そしてこの「話す」「聞く」の習得のため、パーマーが注目したのは幼児の母語習得です。その中でパーマーは幼児の母語習得には①耳による観察、②口まね(①の模倣)、③口ならし、④意味づけ、⑤類推による作文、という5つの習性を見出しました。そしてこの習性を養成する練習として、①音を聞き分ける練習、②発音練習、③反復練習、④再生練習、⑤置換練習、⑥命令練習、⑦定型会話、という7つの方法を提唱しました。オーラルメソッドの教授法においては、この①-⑦のような練習を行っていくと考えてください。 |
p.106 | 下から2行目の「適切な訳注本」ですが、「訳注本」とはどんなものをいうのでしょうか。 | 「訳注本」とは、その字の通り、「翻訳」と「注釈」の本のことです。「翻訳」については、きちんと言語学的な背景も理解したうえでの翻訳でないと、意味の理解に誤解が生まれてしまいますので、翻訳前の日本語母語話者、熟達した日本語非母語話者、翻訳された言語の母語話者などが、意味をきちんと擦り合わせる必要があります。その点は、翻訳ソフトでの翻訳とは異なる翻訳作業となるでしょう。 また、「注釈」については、以上の綿密な翻訳作業をしたうえで、注意が必要である点が説明されているものです。現在では、『みんなの日本語』(スリーエーネットワーク)の『翻訳・文法解説書』が、それに近いものとなりますので、興味があれば参考にしてみてください。 |
p.123 | 囲みのエピソードの最終行「漱石も答えられなかった「に」と「へ」の違い」について教えてください。 | 「~に行きます」「~へ行きます」などと、動作の方向を示すのに使われる「に」「へ」は、「に」は到着点を表し、「へ」は動作の方向を表すと言われています。つまり、「に」が到達点そのものに焦点が当てられているのに対して、「へ」はそれよりも広い範囲、つまり到達点とともにそれに向かう経路や方向性に焦点が当てられています。 コラムの中の「庭に出た/庭へ出た」の例で考えてみると、「庭に出た」と言えば、「庭」という到着点が強調され、「庭へ出た」と言えば、「庭の方面」という方向を示すニュアンスが出るわけです。 助詞「に」「へ」にはこのようなニュアンスの違いがあるにせよ、日常生活では例えば「学校に行きます」と「学校へ行きます」は、特に違いが意識されない場合が多いでしょう。そのため、日本語教育では「動作の帰着点」を表す用法として「に」と「へ」は置き換え可能な助詞として教えられる場合がほとんどです。 ただ、若い人は「東京に行く」「うちに帰る」のように「に」を使うことが多く、年配者は「東京へ行く」「うちへ帰る」が多いと見る向きもあります。数量的に調査したわけではありませんが、このような世代により好まれる表現に違いはあるかもしれません。また、表現が高度になった場合にはより顕著な違いがあるようです。「へ」の場合は「駅へ行く途中」という意味での「駅への道」という言い方がありますが、「に」の場合は「駅にの道」とは言いません。これは駅に行くという移動の方向にある道をさすので、「に」より「へ」のほうが適切だからという意識が働くからなのかもしれません。 |