NAFL10巻 よくある質問
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該当ページ | 質問 | 回答 |
p.5 | 「学校」が「がくこう」でなく「がっこう」と発音する理由はなぜですか。 | テキストの冒頭に書かれていますが、これは発音の便宜上から生じたものです。日本語だけではなく、言語はなるべく発音しやすいように変化していきます。 他にも、「かん+おん→かんのん(観音)」などいろいろな音韻の変化があります。これはテキスト⑫「日本語史/日本語教育史」の9ページまとめられています。 また、このような発音の変化は現代でも起こっています。 たとえば、「洗濯機」は現在のところ表記上は「せんたくき」が正しいとされていますが、会話の中ではしばしば「せんたっき」のように促音化して発音されます。 この「促音化」の現象は、母音が/t/ /k/ などの無声子音に挟まれて無声化したことによるものです。発音の変化については、テキスト⑧「日本語の音声Ⅱ」p.73-75にまとめられております。 学習者から質問された場合は、学習者の専門や日本語のレベルなどにもよりますが、初級レベルであれば、細かい説明をしても難しくなってしまうので「がくこう」では発音しにくいから「がっこう」に変化したと答えれば十分でしょう。 |
p.16 | 〈タスク1〉の問題 「危険」は、解答では「ナ形容詞」となっています。これは「形容動詞」のことで日本語教育の場合だけに使う品詞名ですか? 「危険」を国語の辞書で調べると、「名詞」「形容動詞」の2つが書いてありました。 |
「ナ形容詞」は、日本語教育で使う用語になります。 国語教育では、「イ形容詞」を「形容詞」、「ナ形容詞」を「形容動詞」としており、いずれも「物事の状態や性質を表す活用がある用言」と習います。そして、この二つの違いについては、「終止形が「~だ」で終わるのが形容動詞、終止形が「~い」で終わるのが形容詞」と活用の方法で区別しています。 しかし、形容詞の活用の方法をしらない日本語学習者にはこのような区別の方法では、二つを区別することができず、区別ができないことで「危険かった」のように、活用の間違いをしてしまうこともあります。 そのため、「物事の状態を表す」という本来の機能から、物事=名詞に接続する形によって、「イ形容詞」「ナ形容詞」と日本語学習者に分かりやすい用語で説明しております。 例えば「きれい」と「かわいい」の品詞の違いですが、一見分かりにくいのですが、名詞に接続させて、「きれいな服」「かわいい服」とすると、「きれいな」は「な」で接続する、「かわいい」は「い」で接続するという形の違いから学習者には品詞の違いを理解してもらうことができます。 このように、国語教育での用語と日本語教育での用語では特に文法に関する用語では異なる用語が多いので、『改訂版 日本語教育能力検定試験 合格するための用語集』なども併せてご参考になさってください。 |
p.17 | 第一章 ポイントチェック ①について、答えが”形式”で「品詞の分類は、基本的に、語の形式によって行われるものである」 となるが、形式とは、定まったやり方と認識しています。つまり 品詞の分類は、語の決まったルールに沿った使われ方により行われるとの理解でよいのでしょうか? この場合の”形式”の意味合いを明確にしておきたいです。 | 10巻だけでなくNAFLのテキストで、「形式」という用語はよく出てきますが、NAFLで使われる場合、「内容」と対立する意味で使われており、「内容」がその言葉や表現の意味など「中身」を意味するのに対し、「形式」は、「ます」で終わる形、「ご」で始まる形など、「見た目」の形のことを言います。ですから、「ウ段で終わっているから動詞」「名詞の前につく形が「イ」か「ナ」によってイ形容詞かナ形容詞になる」という分類は「形式」による分類になります。 ただ、このポイントチェックでは日本語教育における品詞分類について述べられています。品詞の分類に関してば、日本語教育を視点にしない場合(国語学とも言える分野)では、意味によって分類する場合もあります。 例えば、「動き」や「状態の変化」を表すのは動詞である、という分類方法です。このような分類方法では、そもそも言葉の意味が分からない日本語学習者は品詞を分類することができません。 ですから、日本語を学習する人のためにわかりやすいようなルールとして、分かりやすい見た目の「形」に注目した方が活用なども覚えやすいので、「形式」によるものとなっています。 |
p.22、23 | P22 23にかけて 丁寧体 と 普通体 における動詞の活用の説明があり、丁寧体の活用は 「非過去・肯定」「非過去・否定」「過去・肯定」「過去・否定」の4パターンの活用を説明、普通体の活用の説明になるとP23 図1のように「ナイ形」「マス形」「辞書形」「バ形」「意向形」の活用についての説明になります。 丁寧体と普通体において上記のように説明に用いる活用パターンを変えている理由があれば、教えてください。 また、丁寧体においての「ナイ形」「マス形」「辞書形」「バ形」「意向形」の活用についての説明を求められた場合どのように説明すべきでしょうか? ”飲みます” ”食べます”を例に説明いただけると助かります。 |
まず、丁寧体と普通体についてご説明しますが、「体」とは「スタイル」のことで、簡単に言うと「丁寧に言うか(書くか)、カジュアル(普通)に言うか(書くか)」という違いです。 一方「~形」というのは、どのような形になっているのか、「形式」の問題で、「フォーム」のことです。 日本語で丁寧体か普通体かの違いは、「です・ます」を使って話すのが「丁寧体」で、使わないのが「普通体」です。例えば、「食べます」は丁寧体で、「食べない」は普通体です。 ただ、ここで「食べない」は、「ない形」なのか「普通体」なのか?という疑問が出てくるかと思います。しかし、先に述べたように「普通体」と「普通形」といのは、スタイルかフォームの違いであって、観点の異なるルールになります。ですから、「食べます」は丁寧体で、「ます形」であり、「食べない」は普通体で、「ない形」であると、どの言葉も二つの観点で説明することができます。テキストp.23の説明でも「普通体あるいは普通形を教える」と両方のことばが出ているのは、二つは全く違うものだからであり、活用パターンも異なるのでこのような説明となっています。 丁寧体においての「ない形」「辞書形」の活用についてですが、丁寧体とは「です・ます」で終わるスタイルですから、「です・ます」で終わる形でなければなりません。しかし、以下のように「丁寧体」ですが「ない形」「辞書形」を使う文もあります。 例1)今日は甘いものを食べないつもりです。 例2)お正月はお餅を食べると思います。 以上の文末は「です・ます」で終わっているので、この文章は「丁寧体」ですが、「食べない」「食べる」など「普通形」の動詞を使って表しています。 このような動詞を活用させて接続させる文がでてくると学習者も「体」(スタイル)と「形」(フォーム)の違いは混乱しますので、注意が必要です。フォームの練習と文脈にあった丁寧な使用であるかというスタイルの練習、両方が必要です。 |
p.26 | 動詞の活用についてです。ⅠグループとⅡグループ の分類方法が分かりにくいです。別の教材に、過去形にした際に促音便が現れるのがⅠグループ、そのまま過去形の「た」がつくものがⅡグループとありまが、これで覚えても大丈夫ですか。 | p.26(7)②「ナイ形を作り、ナイの前がア段ならⅠグループ、それ以外ならⅡグループ」という判断が難しいということですね。 ご質問で言及のあった「過去形にした際に促音便が現れるのが1グループ、そのまま過去形の「た」がつくものがⅡグループ」というのは、ナイ形と同じように判断基準として使えるわけではありません。 Ⅰグループの動詞には「書く」「泳ぐ」「話す」「遊ぶ」などがありますが、これらを過去形(タ形)にしても、「書いた」「泳いだ」「話した」「遊んだ」となり、促音便は出てきません。 Ⅰグループの中で、タ形にした際に促音便が現れるのは「~う」「~つ」「~る」で終わる動詞のみです。 そのため、全ての動詞のグループの判断基準として、この基準は使えないのです。 この判断基準が有効なのは、p.27(8)で示された方法で、グループの判別をしていった場合でしょう。 ③動詞が「~る」で終わる場合の判断基準として使えるわけです。 特に「b. 「る」の前がイ段かエ段だとⅠグループかⅡグループか判別不能」となってしまった動詞を判別するのに使うことができます。 具体的には「帰る」「変える」「切る」「着る」といった全て「る」で終わり、「る」の前がイ段かエ段の動詞の場合、タ形に変換し、 「帰った」「変えた」「切った」「着た」とすると、促音便が現れた「帰る」「切る」はⅠグループ、現れなかった「変える」「着る」はⅡグループと判断できるわけです。 しかし、この見分け方はナイ形と同様、日本語の内省がある日本語母語話者しか使えませんから、 日本語学習者の場合は、p.27(8)③bまで行くと、あとは「「切る」はⅠグループ、「着る」はⅡグループ」などと例外として教えて覚えてもらうしかないのです。 |
p.35 | (17)で“押す”はBグループとなっていますが、例えば駅員が乗客を社内に押す。等の文章がありうるので <構文>XがYにZを~ の <働き>対象を移動させることを表す に当てはまるので Dグループの方が適当ではないでしょうか。 また、“ぶつかる”はCグループとなっていますが、自動車が電柱へぶつかる。等の文章がありうるので<構文>XがYへ~ も取りうるため Aグループの方が適当ではないでしょうか。このような質問が学習者からあった場合 どのように説明をするべきでしょうか。 |
このような文法解釈の場合は、最も一般的な使われ方で解釈するのが通常です。 ご質問にある例文についてですが、「駅員が乗客を社内に押す」という文が成立するためには、ラッシュアワーであふれそうな乗客がいるなどの状況が必要で、「自転車が電柱へぶつかる」という文がAグループの「自らの移動」を表す場合は、自転車が何らかの理由で制御不能な状況に陥った場合、 ふらふらと電柱の方向に向かっていく、という状況が必要です。 しかし、どちらもありうる状況であり、文としては成立しています。 ただ、文の意味を解釈するためのプラスαの文脈を与えると無数の解釈が出てきてしまうので、「押す」という動作を最もよく表すのはどれかと考えるとBグループとなるのです。 「ぶつかる」も同様です。 学習者には、「そのような解釈も可能だ」と説明したうえで、この分類の意味を説明するのがよいでしょう。 |
p.40 | 〈タスク5〉のような問題ですが、どのように考えればいいですか?例文を自分で作って比較するのでしょうか。 | おっしゃるとおり、まず例文を自分で作ることが大切です。 「例文を作る」ということは、日本語教師になってからも、常に必要な作業になりますので、そのトレーニングだと思い、このようなタスクに取り組んでください。 このタスクの例文を作る際のポイントですが、質問文の「「与える」と同じタイプの構文を作るものを選ぶ」ということから、動詞がどのような格助詞を伴って構文をつくるか、という点に注意を向け例文を作ってみてください。 また動詞と格助詞の組み合わせを「構文」とよんでおりますので、10巻p.37のパターンを参考になさってみてください。 「与える」という動詞を使った例文を作ってみましょう。 例1) 母が犬に餌を与える。 例2) 母が子どもにお小遣いを与える。 などが考えられるでしょう。 この2つの例文の動詞と格助詞の組み合わせを見てみると「~が~に~を あたえる」と「~ガ~ニ~ヲ 動詞」という形になっているかと思います。 構文を考える上では以下がポイントになります。 ・その動詞がどのような格助詞を伴って使われるか。 ・格助詞で表している内容は、その動詞の事柄を実現させるために、必要な要素であるかどうか。 2番目の要素の「その動詞の事柄を実現させるために必要か」という視点が重要です。 例えば、 例3)妻が子どもにおもちゃを買った。 例4)妻が子どもに本を読んだ。 のような文も成立します。しかし、「買う」「読む」という動作を成立させるために「子供に」という要素は、必ずしも必要ではありません。これがp.38以降で述べられている「副次補語」になります。例えば 例5)妻がおもちゃを買った。 とした場合でも、「買う」という動作主(妻)と目的語(おもちゃ)がそれぞれ「が」と「を」で示されているので、文として成立しています。 しかし、「あげる」を使った以下のような文にすると、 例6)妻がおもちゃをあげた。 このままだと「だれに」が足りない感じがします。このように「何か足りない」という点がないかという観点で例文を作り比較してみるとよいでしょう。 |
p.44-49 | とりたて助詞の特徴①「分布の自由度がある」について質問です。 とりたて助詞は補語を自由に取り立てることができる と理解すべきでしょうか?または、とりたて助詞の補語は文中の場所を自由に換えることができる と理解すべきでしょうか? |
分布の自由性について 「分布の自由性」とは、とりたて助詞の文中での分布が非常に自由で、種々の要素(名詞句、副詞句、述語等)に後続できることを指します。 ですから、「分布の自由性」という解釈は質問の中で最初に指摘されていた「とりたて助詞は補語を自由に取り立てることができる」という理解でよいかと思います。 ただし、日本語は大きく分けて補語と述語でできているわけですが、とりたて助詞は、補語にも述語にも後続できます。 例えば、とりたて助詞「だけ」を「太郎はラーメンを食べただけだ。」のように、動詞に後続する形で使うことができるわけです。 ですので、とりたて助詞がとりたてられるのは補語だけではないという点だけ、ご確認頂ければと思います。 |
p.47 | 「も」のスコープについて質問です。 「自分の後ろにある部分までも受けてしまっている」とありますが、もう少しかみくだいて解説してください。 また、(12)の「風も」の「も」が(13)の「…強くなって来」を取り立てているように思えないのですが…。 |
「も」のスコープについて テキスト該当箇所(47ページ)では、(12)雨が降り始め、風も強くなってきた。 という例文を挙げ、この「も」は一体何に累加しているものなのかを問うています。 「「風も」の「も」が「…強くなって来」を取り立てているようには思えない。」ということですが、この文を読んだときに、まず最初に雨が降り始めて、加えて風が強くなってきたということを言っている文なのだなと感じられたのではないでしょうか。 しかし、文構造としては「「風も」強くなってきた」と名詞をとりたてる形で「も」が使われているわけですから、本来なら「他に何か強くなってきたものがある」、つまり「【名詞】だけなく、風も強くなってきた」のように名詞だけをとりたてて累加しているはずなわけです。そこで候補になるのは「雨」なわけですが、「雨」はまだ降り始めであり、強くなったとは書いてありません。 つまり、この「風も強くなった」という「も」を直前の【名詞】だけをとりたてていると考えると辻褄が合わないわけです。 すると、やはりこの文では、「最初に雨が降り始めて、加えて風が強くなってきた」ということを「も」で表しているという解釈が妥当であるといえるわけです。 そして、(12)がその意味であるなら、 (13)雨が降り始め、風が強くなってきました。 という文と同じ意味であるということになります。 (13)では「風が強くなってき」という部分をとりたてる形で「も」が使われているため、「雨が降り始めた」という現象に加えて「風が強くなってきた」という現象も起きたということを表しているからです。 「(12)の「も」は自分の後ろにある部分までをも受けてしまっている」というのは、(12)が「【名詞】+も」(風+も)と名詞を取り立てる形になっていながら、実は意味的には、「【名詞】+も+【述部】」(風+も+強くなってきた)、つまり、【名詞】部分だけではなく、後の【述部】までをも「も」で取り立てることができていることを意味しています。 |
p.48 | (15)5人も来た。 文中の”も”の意味を 学習者に質問されたとき、「5人を多くの人数として強調している。1人 ,2人,3人・・・と累積した結果5人になったという意味での累加の"も"である。」という回答をしようと思いますが、適切でしょうか? |
p.48の説明にあるように「5人来た」との違いが重要です。 そのために同じような用法の「も」の例文も準備しておくのがいいでしょう。 例えば、 例1)3皿食べた。3皿も食べた。 例2)2冊読んだ。2冊も読んだ。 それぞれ「も」を使わなくても文は成立しますが、わざわざ「も」を使うことによって、5人、3皿、2冊という数が、実際の数の多さだけでなく心理的にもその数が多いということを表すことができるのではないでしょうか。 例えば、大好きなジャンルの本や漫画などを2冊読む場合の「2冊」は特別な意味がありませんが、留学生が日本語の小説を初めて原文で読んだ場合は「2冊」には大きな意味があり、「も」を使うことによって特別な意味を累加しています。 つまり、学習者への説明として重要なのは「も」そのものの説明ではなく、なぜ「も」を付けるのかという点です。 その点を学習者の関連する話題から例文を作って、違いを考えてもらいながら説明するのがよいでしょう。 また、学習者への質問についての答え方ですが、まず学習者がどのような点で疑問に思っているのか、どこで理解できていないのかを把握する必要があります。また学習者の日本語レベルにあった日本語での説明も必要です。 その点を常に意識しておくとよいでしょう。 |
p.54 | P54 (15)において 「が」の用法を大きく2つに分けると説明しています。 P52(6)イルカが一番かわいい。のような「排他の「が」」は、排他の意味合いが含まれていますので「中立叙述の「が」」ではない。よって「中立叙述の「が」」の用法とされる P54 (15)➀には当たらないと理解しました。かといって、この用法が P54 (15)の②にも当たらないと思う(状態性述語を含んでいないため)のですが、これについてどう理解すればよいのでしょうか? |
「が」の用法は、大きく分けると、p.54(15)にあるように二つあります。 |
p.54、56 | はとがの違いについての質問です。 「は」には主題と対比の二つの用法があり、それぞれの特徴までは理解しましたが、56ページ1行目の"主題の「は」は、前節する名詞が動作・出来事の主体であることを示す格助詞「が」があるべき位置にきている"とは、は→がに置き換えられるということでしょうか? また、そうであるならば、なぜわざわざ「は」を使う必要があるのでしょうか? また、54ページ下から10行目には、"格助詞「が」の前接する名詞が動作・出来事の主体であることを示す用法は、「は」との相違がいつも問題となる"と記載されていますが、これは、対比の「は」ではなく、主題の「は」との相違が難しいということでしょうか?そして、学習者から質問された場合どのように答えるとわかりやすいでしょうか? |
まず、1つ目の質問ですが、「主題の「は」は、前節する名詞が動作・出来事の主体であることを示す格助詞「が」があるべき位置にきている」というのは「が」にも置き換えられるということです。 つまり、(17)「私はステーキを食べました。」という文は「私がステーキを食べました。」 ということもできるということですね。対して、(16)「ステーキは私が食べました」という文における「は」は「ステーキが私が食べました」のように、「が」には置き換えられません。 テキストではこのような違いから、ある文で使われる「は」が「対比の『は』」なのか「主題の『は』」なのかを判断できることが多いとしているわけです。どういうことかというと、(17)のように文で使われる「は」が「が」に置き換えられるタイプの「は」の場合は、 「主題の『は』」であることが多く、(16)のように「は」が「が」に置き換えられない場合には「対比の『は』」であることが多いということです。 また、(17)のような文でなぜわざわざ「は」を使うかですが、これは「が」を使う場合と「は」を使う場合でニュアンスが異なるからです。 ①私はステーキを食べました。 ②私がステーキを食べました。 ①の方は、「私」が「ステーキを食べました」という「主題である『私』が何をしたか」という事実をただ語っているように聞こえ、②の方は、「他の人ではなく、私」が「ステーキを食べました」という排他的なニュアンスを感じられたのではないでしょうか。つまり、①で使われているのは「主題の『は』」であり、②で使われているのは「排他の『が』」というわけです。 このように私たちは文で強調したいメッセージや伝えたいニュアンスによって、「は」と「が」を使い分けています。 2つ目の「『格助詞「が」の前接する名詞が動作・出来事の主体であることを示す用法は、「は」との相違がいつも問題となる』と記載されていますが、これは、対比の「は」ではなく、主題の「は」との相違が難しいということでしょうか」という質問についてですが、この点については、とにかく「は」と「が」が置き換え可能な場合においては、「主題の『は』」であれ「対比の『は』」であれ、「が」との違いが問題になると考えて頂ければよいかと思います。 学習者にどう説明するかですが、これについては、学習者がどのような点で「は」と「が」を問題にしているのかによって説明の内容が変わってきますので、質問に答える際には、学習者が持っている疑問をよく見極めることがまず前提になってきます。 ここでは、ご質問のあった「主題の『は』」と「が」の違いの説明について紹介いたします。 上でも指摘したように、「主題の『は』」と「排他の『が』」というのはどちらが使われているかによって伝わるニュアンスが異なるので、①、②の文の違いで説明したように、それぞれの表現を使うことで伝わるニュアンス、使われる文脈、場面に焦点を当て、説明を行うとよいかと思います。また、「主題の『は』」と「排他の『が』」は新情報、旧情報という観点からも説明することができ、この観点から学習者に説明をするとわかりやすいかもしれません。 例えば、 ③私は医者です。 ④私が医者です。 という文を考えてみます。 ③はおそらく自己紹介などの場面などで使われやすいでしょう。「私」を主題として、私について語る一つとして「医者である」という情報を聞き手に伝えているわけです。また、「職業は何ですか。」などと質問された場合にもこの表現が使われるでしょう。どちらにしても、この文において「私」というのは聞き手にとっては新しい情報ではありません。 むしろ、「医者である」という方が聞き手にとっては新しい情報になりますから、主格となる名詞は既知(=旧情報)であり、ここでは「は」が使われるわけです。 対して④が使われる場面はどのような場面でしょう。 おそらく、誰かがお医者さんを探していて、「はい、私が医者です!」というように名乗り出る場面が想像できるでしょう。この場合において、ある人は「医者」を探していたわけですから、「医者」というのは聞き手にとっては既知の内容(=旧情報)です。 対して「私」という「主格となる名詞」は「新情報」ということになりますから、「が」が使われることになります。 このように聞き手、読み手が主格となる名詞を旧情報として受け取るのか、新情報として受け取るのかによって、「主題の『は』」と「排他の『が』」は使い分けられていますので、使われる文脈、場面の情報と合わせて、このような基準も学習者に伝えるとよいかもしれません。 |
p.66 | (34)の「私の車がジョンに壊された。」や(35)の「私の財布がジョンに盗まれた。」という文と「私はジョンに車を壊された。」や「私はジョンに財布を盗まれた。」といった持ち主の受身の文はどう違うでしょうか。 | (34)「私の車がジョンに壊された。」、(35)「私の財布がジョンに盗まれた。」という文は「〈物〉が/は~(ら)れます」という構文で、〈物〉を主語とした受身文になります。一般に日本語においては、〈物〉を主語とした受身文は成立しにくいといわれていますが、(36)「被害者が存在していれば物主語の受身文もOKになる」(テキスト10巻『日本語の文法―基礎』p.66)というルールがあります。(34)(35)の文では、どちらにも「私の」という修飾語がついており、また文の内容も「困った」「迷惑だ」と感じる内容になっていることから、被害者が存在していることがわかります。ただし、(34)(35)の文では「人」ではなく、「物」が主語になっているため、事柄を客観的に叙述するニュアンスが強くなります。 一方、「私はジョンに車を壊された。」「私はジョンに財布を盗まれた。」という持ち主の受身文は「〈人〉は〈所有物〉を~(ら)れます。」という構文で、〈人〉が主語になる受身文です。この構文を用いて〈人〉を主語に置くことにより、その〈人〉が「困った」「迷惑だ」という気持ちを表すことができます。「私はジョンに車を壊された。」「私はジョンに財布を盗まれた。」という文では、「私」という〈人〉が主語となり、〈所有物〉である「車」「財布」を「壊された」また「盗まれた」ことについて「困った」「迷惑だ」などの気持ちを抱いていることを表現することができます。 以上まとめますと、物主語の受身文の方は、「人」ではなく、「物」が主語になっているため、事柄を客観的に叙述するニュアンスが強くなるのに対し、持ち主の受身文は「人」が主語となり、その「人」の迷惑な気持ちを表すニュアンスが前面に出るという違いがあります。 |
p.66、67 | 「視点の制約」について p.67の1行目、「(37)の受け身文では、まず、主語である「ジョン」に視点が向けられ、 それと同時に「人」である「ジョン」と「スーザン」にも視点は向けられます。……(37)の受身文では、主語でもあり、人でもありジョンが頑張っている??ので視点が完全に分裂することがかろうじて防がれています。」とありますが、この文章の意味がわかりません… (38)の受身文では視点の向けられる先「この紅茶」と「ジョン」というように完全に二つに分かれてしまっています。 なぜ、このように完全に視点が分裂してまうと、不自然な文章になってしまいますか? |
ご質問の文を理解するには、まず久野による「視点」についての記述を確認する必要があります。p.66には以下のように書かれています。 文の要素には、聞き手(読み手)の「視点」が向けられやすいものとそうでないものがあり、受身文にかかわる要素について言えば、「受身文の主語」と「人」は「視点」が向けられやすいものなのだそうです。(p.66最後の段落の上から3行目から5行目) ここでいう「視点」とは、簡単に言うと「その文を何を中心に見たり聞いたりしているか」という見聞きするポイントのことです。つまり、「『受身文の主語』と『人』は『視点』が向けられやすい」というのは、受身文を読んだときに、聞き手(読み手)は「受身の主語」と「人」を文の中心として捉える傾向があるということです。 (37)「ジョンがスーザンにけられた」という文において、「受身の主語」は「ジョン」です。そして、この文に出てくる「人」は「ジョン」と「スーザン」です。そのため、この文を捉える際に「まず、主語である「ジョン」に視点が向けられ、それと同時に「人」である「ジョン」と「スーザン」にも視点が向けられます。」というわけです。 そして、「視点」は「受身の主語」と「人」という条件のうち、一つを満たしている部分よりも、両方の条件を満たしている部分に向けられやすいです。そのため、(37)の文において視点は「人」という条件だけを満たしている「スーザン」よりも「受身の主語」および「人」という条件を満たしている「ジョン」に向けられます。これが、「(37)の受身文では、主語でもあり、人でもあるジョンが頑張っている」という記述の意味するところです。 また、この文では続いて、「…ジョンが頑張っているので、視点が完全に分裂することがかろうじて防がれています。」とあります。「視点が分裂する」とは「受身の主語」、「人」という条件だけを満たす部分が一つずつ存在してしまうと、その文の聞き手(読み手)はどこに注目したらいいのか分からなくなってしまうということです。つまり、ここでは「ジョン」が「受身の主語」および「人」という2つの条件を満たしていることで「視点の分裂」(どこに注目していいのかわからない)を免れているというわけです。 一方、38)「この紅茶はジョンに飲まれている」という例はまさに「視点が分裂してしまう」例です。なぜなら、この文に出てくる「受身の主語」は「この紅茶」、「人」は「ジョン」であり、どちらも「受身の主語」「人」という条件を一つずつしか満たしておらず、聞き手(読み手)はどちらに注目すればいいのかがわからないからです。つまり、「38)の受身文では視点の向けられる先が「この紅茶」と「ジョン」というように、完全に二つに分かれてしまっているというわけですね。 完全に視点が分裂してしまうと、不自然な文章になってしまう理由ですが、これはやはり聞き手(読み手)が文の中でどこに注目してよいかがわからなくなってしまうことに起因していると思われます。 |
p.68 | 直接受身と間接受身と関連して、「使役受身」についてお尋ねします。たとえば、 ・息子は母にパンを食べさせられた という文があるとします。 これは、 ・母は息子にパンを食べさせた という能動文になると思います。 すると、使役受身はいつも直接受身だとみてよいでしょうか? また、 ・兄は母からいつも怒られている という文について、これは ・母は兄をいつも怒っている という能動文にできるので、直接受身とみてよいでしょうか? |
まず、こちらで述べている間接受身と直接受身について整理いたしますと、直接受身とは、能動文の目的語が主語になった文であり、目的語と主語を入れ替えることで受身文になった文のことです。 ですから、直接対応する能動文があり、能動文のどの部分を主語にするかによって、以下の二種類があります。 1)ヲ格の受身 能動文:お客はウエイターを呼んだ。 受身文:ウエイターはお客に呼ばれた。 2)ニ格の受身 能動文:山田さんは佐藤さんにボールを投げた。 受身文:佐藤さんは山田さんにボールを投げられた。 一方、間接受身とは、受身文になったときの主語が、能動文の目的語が主語になるのではなく、「持ち主」が主語になっている文や、そもそも目的語がない自動詞を使った文や「持ち主」の存在のない文を受身文にした文を、間接受身と呼んでいます。 つまり、受身文を能動文に戻した時に、受身文の主語が目的語であるかどうか、能動文に戻すことができるかどうかがポイントになります。 その視点で、ご質問にあった例文などの使役受身文を考えてみます。 例1)息子は母にパンを食べさせられた 例2)学生はコーチに走らされた こちらを能動文にすると、 例1の場合は、母は息子にパンを食べさせた 例2の場合は、コーチは学生を走らせた となり、対応する能動文がありますので、それぞれ「母に」「コーチに」が受身文にしたときに主語になっていますので「ニ格」の受身文となります。 また、「兄は母からいつも怒られている」についても、ご質問ありますように能動文に戻すことができていますので、直接受身です。 ただ、テキストp.69にありますように、「持ち主の受身」と「間接受身」については、研究者によってどちらと考えるかは意見が分かれています。ただ、テキストp.69にある4つのタイプに分かれており、直接受身と間接受身の大きなポイントは、能動文に戻すことができるかどうかに注目するとよいでしょう。 |
p.68、69 | 受け身について質問します。 (1)ジョンは私の頭をなぐった。 という文を受け身にすると次の2つになると考えてよいですか? (2)私は、ジョンに頭をなぐられた。(持ち主の受け身 身体部分) (3)私の頭は、ジョンになぐられた。(直接受け身) (2)は、(1)の「私の頭」の「私」を主語にして、つまり持ち主を主語にして受け身文を作りましたが、(3)のような受け身文はなりたちますか? 日本語では「物」主語の受け身はないけれども、被害者が存在していればよいのでこの文は成立すると考えました。 |
ご質問の中で書かれているように、「(1)ジョンは私の頭を殴った。」の受け身は「(2)私は、ジョンに頭をなぐられた。(持ち主の受け身 身体部分)」と「(3)私の頭は、ジョンになぐられた。(直接受け身)」の二つと考えてよいかと思います。(3)はp.66の(33)、(34)、(35)と同じ構造になっていますね。これはp.66「(36)被害者が存在していれば、物主語の受身文でもOKになる」というルールを基にすれば成立可能ということになります。ご質問の内容はp.72〈タスク13〉とも似ていますので、こちらもあわせてご確認ください。 ただし、「(3)私の頭は、ジョンになぐられた。」という文は成立はするものの、やや外国語の直訳のような印象を受けませんか。実際、会話などではあまり(3)およびテキストの(33)-(35)のような表現はしないように思います。そのため、日本語の指導の際には、(3)の言い方よりも(2)のような持ち主の受け身の文をより適切な形として教えることも多いですので、この点にもご留意頂ければよいかと思います。 |
p.77、78 | 「もらう」は「あげる」のようにAが身近な時に使えるだけでなく、AとBの身近さが同程度の時にでも使えますか、それとも「くれる」のように身近な時にのみ使うことができ、AとBの身近さが同程度の時には使うことができないでしょうか。 | 結論からいうと「AがBにもらう」と言った場合「もらう」は「あげる」のようにAが身近な時だけでなく、AとBの身近さが同程度の時にも使えます。 p.74にある例文を見てみましょう。 (2)ジョンがスーザンにチョコレートをあげた。 (11)スーザンがジョンにチョコレートをもらった。 (2)の「あげる」を使った文における人間関係の解釈としては、①「ジョン」が話し手(この文を書いた人)に近しい、②「ジョン」と「スーザン」がともに話し手から見て他人である、また同程度に親しい友達である、という2つが考えられます。それと同様に(11)の文でもこの文に出てくる登場人物の関係は、①「スーザン」が話し手に近しい ②「ジョン」「スーザン」は話し手にとって両者とも他人か同程度に親しい友達である、ということが考えられます。つまり、「もらう」も「あげる」「くれる」と同じようにp.77の公式のように書き表すと、 AがBに(から)もらう:A≧B(身近さの程度)となります。 |
p.81 | p.81に「補助動詞」についての説明がありますが、「補助動詞」は 品詞のうちの一つとして理解してよいでしょうか? また、「補助動詞」は、P11(9)の日本語の品詞には記載されていませんが、「補助動詞」は「動詞」に含まれると考えてよいでしょうか? 学習者から「補助動詞」と「助動詞」の違いについて 説明を求められた場合 どのような説明が適切でしょうか? |
「補助動詞」は品詞ではなく、動詞の種類です。つまり、「補助動詞」の品詞は「動詞」ということになります。補助動詞は、ほかの動詞の後に付加する形で用いられ,これにある一定の文法的な意味を付け加える働きをします。例として、「~(て)みる」「~(て)いる」「~(て)くる」「~(て)やる」「~(て)おく」「~(て)しまう」などがあります。これらの表現はもともと「見る」「居る」「来る」「遣る」「置く」「終う」のように単独で用いられる動詞(これを「本動詞」といいます)からできたものですが、その意味が薄れ、他の動詞に付属して文法的な意味を添える役割を担うようになったというわけです。もともとの動詞の意味が薄れていることもあり、補助動詞として使われるこれらの表現は通常、漢字でなくひらがなで表記します。 一方、助動詞は補助動詞と違い、「品詞」です。助動詞とは、常にほかの語に付属して用いられる語のうち,活用があるもので、動詞をはじめとする用言や体言などに添えられてその意味を補ったり,様々な主体的な判断を表したりしするものを指します。例として「れる・られる(受身・可能など)」、「たい(希望)」「せる/させる(使役)」、「そうだ(様態・伝聞)」などがあります。 「補助動詞」と「助動詞」は用言に付属して文法的な意味を添えるという意味では働きが非常に似ていますが、次の点で異なります。まず、補助動詞の品詞は動詞ですから、「補助動詞」は自立語です。一方、助動詞は付属語です。つまり、この二つの違いは自立語か付属語かの違い、すなわち単独で一つの文節になり得るかという点です。例えば「ごはんを食べてしまう」は「ごはんを/食べて/しまう」というように補助動詞「しまう」は単独の文節になりますが、「ごはんが食べたい」(助動詞「たい」)の場合は「ごはんが/食べたい」となり、助動詞「たい」は単独では文節を構成しません。 「学習者に説明を求められた場合どのような説明が適切か」というご質問ですが、日本語を教える際には通常、「補助動詞」「助動詞」というような文法用語を使ったり、「補助動詞」にあたるもの、「助動詞」にあたるものを一覧で教えたりはしません。通常は「~てみる」「~てしまう」「~てあげる」のように一つ一つを個々の文型として教えていきます。そのため、「補助動詞と助動詞の違いは何か」というような質問が出ることは稀なケースかと思われます。ただ、もし聞かれた際にはかなり文法に興味がある学習者であるでしょうから、上記のような違いを教えてもよいかと思います。 |
p.82 | (41)「私はジョンにノートを貸してもらった。」と(42)「ジョンは私にノートを貸してくれた」及び(45)「私は影山先生に辞書を貸していただいた。」と(46)「影山先生は私に辞書を貸してくださった。」、それぞれの2つの文はともに「私」に視点をおいて発話した文ですが、どう違いますでしょうか。どのように「モラウ」系と「クレル」系を区別して用いますでしょうか。 | 「もらう」と「くれる」は、どちらも「何らかの行為を相手から受け取る」という意味、また「その行為に感謝している」というニュアンスをもつという意味において共通しています。どちらも「(私(or身近な人))が「相手から」行為を受け取る」ということからもわかるように、「私」(or身近な人)に視点が置かれた発話文であるといえます。「視点」というのは誰の立場に立って述べるか、という意味ですから、「もらう」も「くれる」もどちらも「私」(or身近な人)の立場から出来事を描写しているということです。 では、この「もらう」「くれる」何が違うのでしょうか。まず、「もらう」「くれる」は文の主語が異なります。 (41)「私はジョンにノートを貸してもらった。」 (42)「ジョンは私にノートを貸してくれた」 という二つの文は(41)の文が「私」を主語として、「私」を文の主役にしているのに対し、(42)は「ジョン」を主語として、「ジョン」を文の主役にしていますね。つまり、「もらう」の文では何らかの行為を相手から受け取った「私」(or身近な人)を主語とするのに対し、「くれる」というのは何らかの行為を私(or身近な人)にした「相手」を主語としているわけです。「もらう」、「くれる」はどちらも視点は「私」(or身近な人)にあり、私の立場から出来事を描写しているのですが、その描写の中で誰を主役にするのかが異なっているわけです。 このような主語の違いから、「もらう」と「くれる」にはニュアンスの違いがあります。「もらう」の文は、自分が相手に頼んだことで、相手がその行為をし、それに対し感謝の気持ちを持っている時に使うのに対し、「くれる」の文は、相手に頼んでいないにも関わらず、相手が自発的に自分にした行為を受けて、感謝の気持ちを持っている時に使用します。 そのため、 (41)「私はジョンにノートを貸してもらった。」 という文では「私」が「ジョン」に「ノートを貸してほしい」と頼んだ結果、「ジョンが私にノートを貸した」という出来事を感謝の気持ちをのせて表現した文であるのに対し、 (42)「ジョンは私にノートを貸してくれた」 は、特に「私」が「ジョン」にノートを貸してほしいと頼んだわけではないのに、ジョンが自発的にノートを貸し、その行為について「感謝の気持ちをのせて」表現した文であるといえます。 (45)(46)も同様です。 (45)「私は影山先生に辞書を貸していただいた。」において「いただいた」は「もらう」の謙譲語ですから、この文は「私」が「影山先生」にお願いした結果、「影山先生」が「私」に辞書を貸し、その行為を「私」が感謝を込めて表現している文となります。 一方、(46)「影山先生は私に辞書を貸してくださった。」において「くださった」は「くれる」の尊敬語ですから、この文は「私」が「影山先生」に特にお願いしたわけではないのに、「影山先生」が「私」に辞書を貸し、その行為に対して「私」が感謝を込めて表現している文となります。 「もらう」の場合は「私」(or身近な人)が頼んで相手がある行為をするわけですから、文の主役(=主語)は「私」であり、一方「くれる」の場合は「相手」が自発的にある行為をするわけですから文の主役(=主語)は「相手」です。 |
p.82 | 「くれる」と「もらう」について質問です。 「もらう」は、自分が相手に頼んだことで、相手がその行為をし、それに対し感謝の気持ちを持っている時に使うのに対し、「くれる」は、相手に頼んでいないにも関わらず、相手が自発的に自分にした行為を受けて、感謝の気持ちを持っている時に使用すると理解しました。しかし、例えば「私にノートを貸してくれませんか」という疑問文の場合、この文に含まれている、自分が相手に頼むということと相手が自発的に自分にした行為である、というところに食い違いが生じるのではないでしょうか。 |
確かにご指摘の通り、「~くれませんか」という疑問文の中で「くれる」が使用される際には「私」から依頼を言葉にしている時点で「私が頼む」という行為が実行されてしまっていると考えると、先の説明と矛盾しているように感じてしまいますね。 「ジョンが私にノートを貸してくれた。」などの平叙文では「くれる」を使った場合、「私」が頼んでいないにも関わらず相手がある行為をした、という意味を表します。これは「もらう」を使う場合と、自分が依頼したかどうかという点で異なります。 一方、疑問文にした場合には「~くれませんか。」と言った時点で相手に依頼をしているわけですから、「私が相手に依頼をしていない」ということにはなりません。しかし、「くれる」を使った文は主語が「相手」になることから、「相手が自らの意志で行う」というニュアンスは平叙文の時と同様に伴います。つまり、「~くれませんか」というと、「あなたが自らの意志で私に~をしてほしい」という含意を感じるわけです。 一方、「~もらえませんか」と言った場合には依頼を受ける「相手」ではなく、依頼をする「私」が主語になりますので、「私があなたから~という恩恵を受けたい」という含意を感じます。 一般的に「~もらえませんか」と言った方が「~くれませんか」というよりも丁寧であると言われています。それはなぜかといえば、「もらう」を使って「あなたが自分の意志でどうするか」ではなく「私があなたから恩恵を受けることができるか」を聞くことで相手の意志や行動を問題にするのではなく、私が恩恵を受け取ることができるかどうかに焦点を当てることができるからです。 実際、「~もらえませんか」より「~くれませんか」が使われやすい場面を考えてみますと、例えば、何も家事を手伝ってくれない夫に対して妻が「少しぐらい手伝ってくれない?」という場面が思い浮かびます。この場合妻は夫に言葉で依頼をしているものの、「夫に自分の意志で手伝ってほしい」というニュアンスを感じるわけです。 一方、例えば受付で何かの申込書をもらいたい場合に「申込書をくれませんか(くださいませんか)。」というのは少し違和感を感じます。この場合には自分がお願いをしてはじめて相手が「申込書を渡す」という行為が成り立つのが普通ですから、「申込書をもらえませんか。(いただけませんか)」と言った方が自然に感じます。 以上、疑問文として「もらう」「くれる」を使用する場合には「私が依頼したかどうか」という実際の依頼の有無の違いは表しませんが、相手にどのようなスタンスで依頼をするかという点で異なるわけです。 |
p.88 |
①状態動詞 例:「見える」と「見えている」、「いらいらする」「いらいらしている」の違い |
状態動詞について「時間を超越したものでアスペクトの対立を持たない」とご理解されたとのことですが、これは状態動詞の場合は、「ル形でもテイル形でも出来事がいつ起こったのかについて違いがない」ということですね。つまり、「見える/イライラする」といっても「見えている/イライラしている」といっても現在の「状態」を表すという意味では同じであるということになります。 ただ、「見える」「イライラする」などの内的な状態を表す動詞は、ル形では、一人称以外では基本的に使用することができません。例えば「富士山が見える!」「あーいらいらする!」のように一人称には使用できますが、「佐藤さんは今富士山が見える」「佐藤さんは今イライラする」のようには言えないわけです。これは、ル形では発話の瞬間における話し手の思考や感情、感覚などをそのまま表すためです。「見える」「イライラする」のような内的な状態を、第三者は知り得ないわけですから、瞬間の感情、感覚として示すことができないわけですね。一方「イライラしている」などとテイル形にすると、「客観的な状態」を描写することができ、人称に関わらず使用することができます。 |
p.90 | p.90で説明のある「ている」は、助動詞でしょうか? 意味を添える働きをしているので、助動詞として扱うものかと考えましたが、国語辞書にて確認することができませんでした。例えば助動詞「ます」は国語辞書に載っているのですが、「ている」が国語辞書に記載されていない文法的な理由があれば教えてください。 また、このようなケースで 単語の品詞を確認することに適した辞書や本がありましたら、推薦いただけるとありがたいです。 |
「~ている」という表現ですが、これは「て+いる」と分解でき、「て」は接続助詞、「いる」は補助動詞です。 国語辞典で確認ができなかったのは「ている」という表現単位で調べてしまったからだと思われます。「~ている」の「いる」は「居る」という動詞の意味が薄まりできた表現ですので、辞書で「居る」の項目を調べてみてください。最後の方に「~ている」の用法が紹介されているはずです。 単語の品詞を確認する際には、やはり辞書が便利ですが、辞書は「~ている」のような表現単位では項目が載っていませんので、「て+いる」というように表現を品詞分解した上で調べるとよいでしょう。それさえできれば、どの国語辞書を使われてもよいかと思います。 『第5巻 言語学の基礎』第3章では「統語論」について扱っており、この中で文の品詞分解をしています。特にp.44、46にある樹形図はわかりやすく、品詞の分解の仕方の参考になるかもしれません。ちょうど「~ている」の表現が入った文を扱っていますので、もしよろしければ確認してみてください。 |
p.91 | 動作動詞と変化動詞について質問します。 「下りる」という動詞は、動作動詞でしょうか、それとも変化動詞でしょうか? 「下りる」「下りている」「下りた」(動作動詞)、「下りる」「下りた」「下りている」(変化動詞)とどちらにも取れるように思います。 |
確かに「下りる」という動詞は「今階段を下りている。」などと言えば、起こる順序は「下りる→下りている→下りた」となり、「下りる」という動作が今継続していることを表しますが、「まだ幕が下りている」などといえば、「下りる→下りた→下りている」という順序になり、幕が下りているという状態を表します。つまり、これは「下りる」を「~ている」の形にした際には「動作の継続」を表す場合もあれば、「変化結果の継続」を表す場合もあるということです。このことから、「下りる」は「動作」という側面と「変化」という側面の両面がある動詞であるといえます。 動作動詞、変化動詞の定義を見てみますと、それぞれ「「動作」を表すことを本務とする動詞」、「「変化」を表すことを本務とする動詞」(p.92)となっています。ここで「本務」という言葉が使われているのがポイントです。すっきりと、「これは動作動詞」、「これは変化動詞」と分けられるのであればおそらく「動作を「表す」動詞」「変化を「表す」動詞」と定義されるでしょう。「本務」としているということは、「兼務している場合があるけれども本業はこちらです」と言っているわけですよね。そして、その本業と副業の割合が動詞によって異なるのです。ある動詞は本業の方の割合がはるかに大きく副業が目立たないけれども、ある動詞は本業と副業の割合が同じぐらいになっていたりするわけです。 「下りる」という動詞は「上から下への移動」を表すという意味で動作性が強いですから、分類としては「動作動詞」ということになろうかと思いますが、「変化」の側面も十分に表すことができる動詞であるといえるでしょう。 |
p.97 | 〈タスク17〉の「変化結果の継続」を表す「~ている」を選ぶ問題で、解答では(4)の「父は、今風呂に入っている」が含まれていますが、これは「動作の継続」を表しているのではないでしょうか? 本文のテキスト(91ページ)にあるように、自分にはどうしてもこれは「~ing」の進行形、「動作を行う」という側面に重きを置いているように思えてならないのです。これが「変化結果の継続」であるということをわかりやすく教えてください。「入る」が変化動詞であるという説明だけではどうも理解できません。 |
「父は、今風呂に入っている」は「動作の継続」なのではないかというご質問ですね。 まず、「入る」というのは「ある場所の外から中へ移る」という意味ですよね。つまり、「風呂に入る」というのは「風呂の外から中に移る」という動作を表します。そのため、「風呂に入っている」を「動作の継続」と捉えると、「風呂の外から中に移る」という動作が継続していることを意味します。 つまり、「動作の継続」の意味で「父は今風呂に入っている」というと、「父」が「風呂の外から中に移る」という動作の継続を描写した表現になります。「今、父は左足を上げ、その足を風呂(浴槽)に入れ、今度は右足を上げ、風呂に入り、しゃがんで風呂につかりました」という一連の移動の動作を捉えた表現になるわけです。 ただ、普通「風呂に入っている」という表現は上のように風呂の外から中に入る様子を実況するような表現としては使いませんよね。むしろ、浴槽につかって、じっと座っている状態を表す表現として使われていると思います。 つまり、「父は今風呂に入っている」といった場合、「風呂に入る」という動作はすでに終わっていて、「父が風呂の外から中に移った」という変化した結果の状態が継続していることを表しているわけです。 p.92-93では「動作の継続」と「変化結果の継続」の見分け方としてその動詞のル形、タ形、テイル形がどの順序で起こるかを考える、という方法が紹介されています。動作が起こる順番が「ル→テイル→タ」ならば「動作の継続」、「ル→タ→テイル」ならば「変化結果の継続」というわけです。 上の基準で考えてみても、通常想起される「父は今風呂に入っている」(浴槽につかっている状態)というのは、 「(これから)風呂に入る」→「風呂(の中に)に入った」→「風呂に入っている」 という順序で起こるため、「変化結果の継続」ということになります。 ちなみに「風呂に入る」という表現は「浴槽に入る」という意味だけでなく「浴室(風呂場)に入る」という意味でも使われるかと思いますが、その場合でも考え方は同じです。 |
p.97 | 〈タスク17〉の(3)の“かぶる”は動作動詞として「動作の継続」を表しているのではないでしょうか? 変化結果の継続を表すのであれば“かぶっている”になるはずではないかと思います。 |
(3)の「石田さんは、緑色の帽子をかぶっていた。」という文は「石田さんは、緑色の帽子をかぶっている。」という文の過去形です。 そのため、「~かぶっていた」であれ、「~かぶっている」であれ、「ている」の用法は同じということになります。 この二つの文を「石田さんが今まさに帽子をかぶっている(た)」という「動作の継続」と捉えられなくもないですが、 特定の文脈がない限りは「今帽子をかぶっている状態にある」という「変化結果の継続」を想起するのではないかと思います。 その理由は「かぶる」が変化動詞だからです。 「かぶる」という動詞は「動作」の要素も持っている動詞ですが、動作主が「変化」するということの方が意味的に際立っている動詞です。 どういうことかというと、「かぶる」という動作は一瞬で終わってしまいますから、「今まさに帽子をかぶっています」という動作は描写できなくはないですが、しづらいのです。 ですから、やはり「帽子をかぶっています」と言った際には動作主が「帽子をかぶっている」という状態に変化した、 つまり「帽子をかぶっている状態」の方が想像しやすく、「かぶる」は変化を表すことを本務とする動詞、つまり「変化動詞」であるといえるのです。 |
p.98、99 | 「のだ」の冒頭のエピソードで「おいしいんですか」が不自然というところですが、山内先生が喜んでキムチを食べる様子を見て、きっと先生がこのキムチが好きだと思いながら、この前提的事態を関連づけ、「おいしいんですか」と質問することは不自然でしょうか? | ご質問でも言及されていたように、「のだ」は前提的事態と関連があることを意味する表現です。そのため、p.99下から2行目にあるように、「のだ」という語は、その場の状況と関係なく、状況から独立させて使うことができず、直前に見たり、聞いたり、読んだりしたことなどと関連させて何かを言うときに、用いられます。この説明をもって「先生、おいしいんですか?」を解釈すると、この発話は先生が食べている様子を見て、それと関連付けておいしいかどうか聞いているということになります。 テキストでは「おいしいんですか。」と聞かれると、「おいしくなさそうに見えるからそんなことを聞くのか」と思ってしまうということが書いてありますよ。これは、「おいしいんですか」という表現が、「私が持ってきたキムチはおいしいはずなのに、先生の様子を見ると先生がおいしいと思っているのかがわからない(→おいしくないのかもしれない)。だからおいしいかどうかを聞いて確かめてみよう」という話し手の気持ちを反映させた表現であるように聞こえるからです。 ただ一方で、ご質問のように「キムチを食べる様子を見て、きっと先生がこのキムチが好きだ」という推測をした上でそれと関連付けて「おいしいんですか。」と問うことも考えられます。この場合、ニュアンスとしては「先生はさほどこのキムチを気に入らないだろうと思っていたのに、明らかにおいしそうに食べている様子にびっくりして、おいしいかどうかを聞いた」ということになろうかと思います。 このように「おいしいんですか。」という表現を用いる場合には、必ず状況と関連付けて「おいしいかどうか」を問うということになるわけですから、先生の食べる様子と関係なく、ただ自分のキムチがおいしいかどうかを聞く場合には「おいしいですか。」と「のだ」は使わずに聞くことになります。 |
p.99 | p.99の冒頭に「ん」の正体は「のだ」であるとありますが、「ん」と「のだ」の関係を学習者には、どのように説明するべきでしょうか? | テキストで「ん」の正体は「のだ」としているので少しわかりづらかったかもしませんが、正確には「『ん』の正体は『の』」です。つまり、「んだ」の正体は「のだ」であり、「んです」の正体は「のです」というわけです。 基本的に「のだ/のです」は書き言葉において、「んだ/んです」は話し言葉使われます。なぜ話し言葉で「の」が「ん」になるかと言えばそれはその方が発音がしやすいからです。「のだ→んだ」のみならず、「わたし「の」うち→わたし「ん」ち」、「そ「の」とき→そ「ん」とき」のように、「の」が「ん」に置き換わる現象があり、これを「の」の撥音化といいます。 通常日本語教育では、初級後半あたりで「~んです」という形で「のだ」を導入します。初級では書き言葉よりも話し言葉を優先することが多いですから、「『のだ』は話し言葉では『んだ』になります」というように導入するというよりは、そのまま「~んです」の形で紹介します。もし学習者に「のだ」と「んだ」の関係を聞かれたら、主に「のだ」は書き言葉、「んだ」は話し言葉に使われること、またなぜ「んだ」の形になったかと言えばそれは発音がしやすいから、ということを伝えればよいと思います。 「の」が「ん」と発音されるといったような撥音化については、第8巻「日本語の音声Ⅱ 第4章 4-1 縮約形」(「撥音化」についての記述は p.74)の中でも取り上げられていますので、そちらの説明も参考になさってください。 |
p.100-101 | (8)「どうして日本語の先生になりましたか。」と(9)「どうして日本語の先生になったんですか。」という2つの文は「のだ」の有無によってどう違うニュアンスが生じますでしょうか。 | ご質問の文(8)(9)の違いについて、(12)「『のだ』の『の』には、直前の内容を規定事態化する働きがある。」という「のだ」の機能から考えてみます。 まず(9)の例文ですが、p.101にあるように、 (9)では「のだ」が使われることにより、「日本語の先生になった」ということが既定事態化されています。 つまり話し手にとって「日本語の先生になった」という事態に疑問の余地はないので、そのこと自体の真偽を問う疑問文ではありません。そこで、疑問の焦点は「日本語の先生になった」ことの真偽ではなく、その理由「どうして」に当てられます。 あくまで理由を尋ねているのだということが明確になるわけです。 一方で「のだ」を使わない(8)の場合には、「日本語の先生になった」ということが既定事態化されていません。そのため、(9)とは違って「日本語の先生になった」という事態そのものについて疑問を投げかけているようにも解釈できてしまうため、p.100にもあるように「聞き方によっては、「あなたは日本語の先生になるべきではなかった…」」という意味にも解釈できてしまうというわけです。 |
p.106 | 表1の説明に際に 「判断のモダリティ」と「ね形」の観点で 「情報のなわ張り理論」の組み合わせについての説明があります。「判断のモダリティ」は文法カテゴリーであり、「ね形」は文法形式を示すので、違和感があります。 なぜ、区分けの説明の際に 文法カテゴリーである「判断のモダリティ」と「伝達のモダリティ」を使用せず、あえて「ね形」を使用して説明をしているのでしょうか? また、学習者へ説明する際に「ね形」を「伝達のモダリティ」と読み替えて説明してしまうと、誤りとなってしまうのでしょうか? |
文法形式と文法カテゴリーという用語について、まず確認しておきましょう。 文法カテゴリーとは、ヴォイス、テンス、アスペクト、モダリティといった、文法概念のカテゴリーのことを言います。 そして文法形式とは、そのカテゴリーに属する一つ一つの語やその形のことを言います。 例えば、ヴォイスとは文の主役を交代させる文法的手段で、その概念に属する形式の代表的なものとして受け身文や授受表現があります。例文から確認しましょう。 例1)先生は太郎を怒った。→ 太郎は先生に怒られた。 例2)花子は太郎にチョコレートをあげた。→太郎は花子にチョコレートをもらった。 例1は受け身にすることで、例2は「あげる」を「もらう」と接受動詞を使うことで、文の主役を交代させています。 つまり、受け身の形や接受動詞はヴォイスの文法形式ということです。 またモダリティとは、話し手の心的態度を表す文法的手段のことをいい、その文法カテゴリーに属する文法形式は、p.103-104にあるように色々な文法形式があります。 「ね」については、ご質問にあるように「伝達のモダリティ」に属する、文法形式です。ただ、p.104にあるように「伝達のモダリティ」に属する文法形式は、「ね」だけでなく、「よ」「わ」など他にもあります。 p.106の「情報の縄張り理論」で説明しているのは、「伝達のモダリティ」全てについて述べているのではなく、「ね」に限定しているので「ね形」と説明しています。 ですから、こちらを「伝達のモダリティ」と読み替えて説明することはできません。 |
p.114 | 3行目にp.112の文について、「例えば、(8)(9)(10)の文では、主語が「が」で示されていますが、(11)以降の文では、どういうわけか主語を「は」で示したくなります。」とあります。それはなぜでしょうか? | 第 5 章で述べている「が」と「は」の特徴に基づいて考えていきましょう。 まず、53 ページの中ほどに「形容詞文では普通、『が』は使われないが、排他的な文脈があるときと、話者の判断がなく、見たことをそのまま述べるようなときには、『が』を使うのがふさわしい」と述べられています。また、57 ページの 6 行目から「日本語の文は、主題の有無によって、有題文(題術文・判断文などと呼ぶ人もいる)と無題文(存現文・現象文などと呼ぶ人もいる)に分けることができます。」という記述があります。これらの記述から「が」がある文は話者の判断が含まれない、逆に「は」は「判断文」と呼ぶ人がいるくらいですから話者の判断が含まれていると考えられます。 では、112 ページの(8)~(14)の例文の中で、「が」から「は」に入れ替わっている(10)と(11)の文に注目し、それぞれ「が」「は」両方を考えてみます。 (10) 太郎が花子に殴られている (10’) 太郎は花子に殴られている (10)の文は両方言えるようです。上の段落の考え方に基づくと、(10)はその現象を見た人が、みたままを叙述しているということになります。発見した瞬間「あっ!太郎が花子に殴られている!」という感じでしょう。一方、(10’)には話者の判断が含まれているのです。有り得ないかもしれませんが、あえてつくるなら次のような状況でしょう。 Aさん:「太郎と花子はゲームをしているのかしら?」 Bさん:「いや。太郎は花子に殴られているんだよ。」 つづいて(11)の文をみてみましょう。 (11) 太郎は花子に殴られていない (11’)*太郎が花子に殴られていない (11)の文では「が」を入れると不自然になるようです。どうしてでしょうか。それは(11)が否定文であることに関わってくるようです。否定文は「殴られているか否か」という真理条件に関わるものであり、つまり話者の判断が含まれているということになります。殴られているところをみてそれを叙述するということはあっても、殴られていないところをわざわざ「なぐられていない」と叙述することはほとんどありません。(11)以降の例文は全て単なる現象の叙述ではなく、太郎という人物が今どういう状況下にあるのかという話者の判断・見解が含まれているので「が」は入りにくいということになるかと思います。 |
p.115-120 | 南不二男の従属節の分類がよく解りません。 A類/B類/C類の分類は、118ページの(32)や(33)でもできるし、119ページの(37)~(39)でもできると理解すべきでしょうか? ダスク20と実力診断テスト(22)では、接続助詞の判別を119ページの(37)~(39)で行っているように思います。この判別を118ページの(32)や(33)で行うと、どうなるのでしょうか? また、接続助詞がどの分類のなるかを簡潔に判別する方法はないのでしょうか? |
p.118(32)(33)は南不二男がA類、B類、C類の分類の仕方として提示した分類方法です。(32)(33)の分類方法は、基本的に矛盾することなく、どちらの基準で判断しても分類結果はおおむね同じになります。 C類から: |
p.116 | ナガラ節について質問です。 ナガラ節には「を」のみが用いられ、「が」や「は」は通常用いられないということでしたが、以下のような文章も読んだことがあるように思います。 ・山田君が走りながら叫んでいた。 ・列車が走りながら汽笛を鳴らしていた。 これが文法的に間違いだということをどのように説明すればよいか教えていただけますでしょうか? |
ご質問で挙げられていた「山田君が走りながら叫んでいた。」という文は、「が」が用いられていますが、正文です。この文は〔山田君が〔走りながら〕、叫んでいた〕のような入れ子型の構造をしていると考えられます。つまり、この文は「山田君が叫んでいた」という主節に、「走りながら」という従属節が入り込んでいるという構造だということです。入れ子構造でない構造に戻すと「走りながら、山田君が叫んでいた」となります。「山田君が」は、主節(「叫んでいた」)の主語であるわけです。「列車が走りながら汽笛を鳴らしていた。」も同様、〔列車が〔走りながら〕、汽笛を鳴らしていた〕という入れ子構造になっていて、「列車が」は主節「汽笛を鳴らしていた」の主語であるといえます。 テキストで「ナガラ節」に「は」や「が」が入らないといわれているのは、言い換えると「ナガラ節」の主語は主節の主語と同じである(「ナガラ節」には主節と異なる主語は入らない)ということです。 「山田君が走りながら叫んでいた。」という文では、「走る」「叫ぶ」という行為の主体はいずれも「山田君」であり、「走る」という行為の主体は「山田君」だが「叫ぶ」という行為の主体は例えば「田中君」であるというようなことは考えられないわけです。「山田君が走りながら、田中君が叫んでいた。」という文は自然な文とはいえません。 |
p.118-120 | 接続助詞によってできる従属節の分類がよくわかりません。 接続助詞を分類する簡単な覚え方はありますか? P119の(37)~(39)のルールもわかりやすく教えて下さい。 |
p.116以降で複文の従属節についての説明があり、従属節を作るにあたり、どのような接続助詞を使うことができるのかという点がタスク20の問題になります。そこで、まずp.119の(37)~(39)についてご説明します。 「コト」:名詞+格助詞+動詞とうい形で現れる文 「アスペクト」:動作や出来事がどの時点にあるのかということ。日本語では「~ている」(食べている=食べるという動作が今行われている)が代表的 となります。 |
p.126 | ①126P4行目「底の名詞を文内の格成分に戻し装定を述底に変化させる」の「格成分に戻す」の意味を教えてください。 |
「格成分」の「格」というのは「が」「を」「に」「で」「から」「へ」「と」などの格助詞のことです。したがって「格成分に戻す」というのは底の名詞に格助詞を補って「元の文に戻す」ことを言います。例えば、 (18)わたしが食べたステーキ(装定)(「ステーキ」が底の名詞)→わたしがステーキを食べた(述定=元の文) という例で考えると、「底の名詞を文内の格成分に戻し装定を述底に変化させる」という当該文は「底の名詞「ステーキ」を連体修飾節の残りの部分「わたしが食べた」という文内の格成分に戻し、「わたしが食べたステーキ」(装定)を「わたしがステーキを食べた」(述定)に変化させる」と読み替えることができます。つまり、「格成分に戻す」というのは「ステーキ「を」」と格助詞を補って元の文に戻すということです。「ステーキ」をヲ格という格成分に戻したわけですね。 (19)の例ならば、「北海道で会った人」の底の名詞「人」を二格という格成分に戻し、「北海道で人「に」会った」という述定(元の文)が作るということになります。 |
p.127 | p..127(24)は装定→述定テストには合格できない例ですが、たとえばこれを底の「首相」を格成分に戻そうとしてテストをするのだと思いますが、具体的にはどのような文になりますか。 また、(27)をまず、装定述底テストを試みると「×翌日が酒を飲んだ」は、不成立ですが、「○酒を翌日に飲んだ」は成立します。もちろん意味は違うことは日本人なのでわかりますが、このような見分け方では、学習者はわからないのではないでしょうか? また、連体修飾節があれば、まず装定述底テストをして、不合格名ものを主題化テストをしてみわけるのではないのでしょうか? |
「底」というのは連体修飾節の被修飾名詞(修飾される名詞)ですから、「元首相がわいを受け取った事実」という連体修飾節における底の名詞は「事実」です。「元首相がわいを受け取った」という部分は「事実」という名詞を修飾、つまり「どのような事実」なのかを説明しているわけです。 「元首相がわいを受け取った事実」を格成分に戻すテストですが、このテストは、「事実」という名詞に「が」「を」「に」「で」「から」「へ」「と」などの格助詞をつけて元の文に戻すことができるかというテストです。しかし、試してみると ・元首相がわいろを事実「で」受け取った ・元首相がわいろを事実「から」受け取った などと、格成分に戻そうとすると文がおかしくなってしまいます。つまり、「元首相がわいを受け取った事実」という装定(連体修飾節)は、述定(元の文)に戻すテストに合格できないということになります。 ご指摘の通り、上記の「元首相がわいろを受け取った事実」という例のように、装定述底テストをして、不合格なものは「外の関係」と認定されます。そして「外の関係」と呼ばれる連体修飾節をさらに分類するために用いられるのが主題化テストと呼ばれるものです。 主題化テスト後の分類については、p.127-129をご確認ください。 「酒を飲んだ翌日」という「外の関係」の連体修飾節も「酒を翌日に飲んだ」というようにニ格成分に戻すことができますが、意味が異なってしまうため、装定述定テストには合格しないということになります。この(27)の例の他、(28)、(29)の3つの例は主題化テストにもパスをしない類の連体修飾節で、これはp.129にある「相対的補充」を行う連体修飾節に該当します。 この見分け方は学習者にはわからないのでは、というご指摘ですが、基本的に「内の関係」「外の関係」という概念や「外の関係」のさらなる分類について、学習者に教えることはありませんから、学習者が装定述定テストをするということはありません。これはあくまで、日本語教師側が知っておくべき知識ということです。日本語教師側が、連体修飾節の種類を知っておくことで、学習者がどのような種類の連体修飾節でつまづいているのか、どのように説明すればよいのかというのがわかるわけです。今回のご質問の内容で言えば「酒を飲んだ翌日」という連体修飾節において「底の名詞」と残りの「修飾部」がどのような関係になっているのかを知っておくことで、学習者が何で混乱しているのかを理解し、「翌日」という底の名詞と「酒を飲んだ」という修飾部の関係を端的に学習者に伝えることができるわけです。 |
p.130 | 被修飾名詞の格についてです。 130ページの(44)の例文ですが、「泥棒が貧乏人から金をとった」は「泥棒に金をとられた貧乏人」とすることができるのではないかと思うのですがいかがでしょうか? 受身形に変換する場合は被修飾名詞にならないのでしょうか? |
テキストの第6節(p.129-p.130)では、元の文から連体修飾節(装定)を作るとき、どの格を持つ名詞が被修飾名詞(底の名詞)になれるのかについて書かれています。 この点について理解しておくことが必要かと思いますので、先に説明をさせていただきます。 「(44)泥棒が貧乏人から金を取った」という文は、「(泥棒が)(貧乏人から)(金を)取った」と括ることができ、「泥棒が」というガ格名詞、「貧乏人から」というカラ格名詞、「金を」というヲ格名詞があります。 これらの名詞が連体修飾節を作れるかどうかというのがこの節のポイントです。 まず、「泥棒が」というガ格名詞「泥棒」を底の名詞として連体修飾節を作ってみます。すると、「貧乏人から金を取った泥棒」という連体修飾節ができます。 次に、「金を」というヲ格名詞「金」を底の名詞として連体修飾節を作ってみます。すると、「泥棒が貧乏人から取った金」と連体修飾節を作ることができます。 最後、(44)にあるように「貧乏人から」というカラ格名詞「貧乏人」を底の名詞としてみます。すると、今度は「泥棒が金を取った貧乏人」となり、不自然な連体修飾節になってしまいます。 つまり、テキストにも説明があるように、「ガ格名詞」「ヲ格名詞」は底の名詞になりやすいのに対し、カラ格名詞は底の名詞になりにくいのです。 このように、格によって底の名詞になりやすい格、なりにくい格がある、というのが該当節のポイントです。 上の変換の例からもわかるように、元の文から連体修飾節(装定)を作る際には、格の一つを底とするわけですが、他の成分については全く形を変えずに変換する必要があります。 (40)-(45)の例をみても、元の文と連体修飾節において、助詞、動詞の活用は全く変わっていないことがおわかりいただけるかと思います。 「(40)太郎が本を買った→本を買った太郎」の例を見ても、連体修飾節への変換の際には、が格の「太郎が」が「が」を取り底の名詞になっている以外、文の要素は一切変わっていません。 そのため、「泥棒が貧乏人からお金を取った」という元の文を連体修飾節にする際に、「泥棒が」というガ格を「泥棒に」とニ格にしたり、「取った」を「取られた」と受身形にしたりすることはできないのです。 「泥棒に金を取られた貧乏人」という連体修飾節を軸に考えれば、元の文は「貧乏人が泥棒に金を取られた」となり、この連体修飾節は「貧乏人が」というガ格名詞が底の名詞になるということを示す例になるわけです。 以上の説明のように、文のどの格が底の名詞になり得るかという視点で、もう一度第6節の内容も確認されるとご理解も深まるかと思います。 |
p.130 | 130ページの(44)について質問です。 -------------------------- (44) 泥棒が貧乏人から金を取った → ×泥棒が金を取った貧乏人 --------------------------- 「泥棒が金を取った貧乏人」という表現は、私には特に問題はないように思える(まったく違和感は感じませんでした)のですが、これはなぜ"×"なのでしょうか? |
連体修飾節とは修飾部と被修飾名詞から成る表現で、例えば、「太郎が買った本」という表現では、修飾部「太郎が買った」が、被修飾名詞「本」を説明する関係になっています。 このように、修飾部は被修飾名詞の特徴、属性、性質などを説明している関係になっていなければなりません。 「泥棒が金を取った貧乏人」という表現は、文法的には成立しているように見えますが、「貧乏人」が「泥棒が金を取った」ということどのように関連しているのかが表せていないことが問題です。 「泥棒が金を取った」における「金」が誰の「金」であるのかがこの言い方からは特定できず、貧乏人が金を取られた被害者であるということが表しきれないのです。 このように、「泥棒が金を取った貧乏人」という連体修飾節では、修飾節「泥棒が金を取った」が被修飾名詞「貧乏人」の特徴を端的に説明しているとはいえないため、×ということになります。 「泥棒が金を取った貧乏人」と同じ内容を表すなら「泥棒に金を取られた貧乏人」というように、修飾部を受身の表現にしなければならないでしょう。 「泥棒に金を取られた」と受身文にすることで、金を取られた被害者が貧乏人であることが特定され、「貧乏人」という被修飾名詞と「泥棒に金を取られた」という修飾部の関係がはっきりします。 テキストの該当箇所のポイントは、「泥棒が貧乏人から金を取った」という文の「貧乏人から」というカラ格を被修飾名詞として連体修飾節を作れないということです。 この例のように、カラ格名詞はほとんどの場合、連体修飾節の被修飾名詞になれません。この点についても、再度テキストを読んで確認してみると理解が深まるでしょう。 |
p.141 | 実力診断テスト[4]について質問です。 答えはAの「愛さない」との事ですが、Bの「愛します」を選「びました。「愛します」だけが、ます形の丁寧形で、他は普通形だと思ったからですが、なぜAなのでしょうか? |
「愛する」は、名詞の「愛」にⅢグループの動詞「する」がついた動詞です。ですから、本来は、Ⅲグループの動詞の活用のルールに従い、解説の通り、「愛しない、愛します、愛する、愛すれば、愛しよう」というように活用します。 選択肢B,C,DはこのⅢグループの活用の体系の動詞です。 しかし、「愛しない」「愛しよう」という表現は使われておらず、Ⅰグループの動詞(五段動詞)の活用の形、選択肢A「愛さない」や「愛そう」の表現が用いられています。したがって、Aが活用形の性質が異なるものとなります。 この様に、一つの活用の体系に他の活用の体系が混ざっている状態を、「相補分布」と言います。 日本語の動詞の活用を学び始めた学習者にとって、「愛しない」「愛しよう」という表現が使われていない、ということまでは分からず、Ⅲグループの活用の体系をそのまま使ってしまうことがあるため、「愛しない」といった誤用もよくあります。 学習者の誤用の原因を知るためにも、このような、特別な体系があることも、覚えておくといいでしょう。 |
p.141 | 実力診断テスト[5]について質問です。 「もらう」と同じタイプの構文を作る動詞はDの「借りる」が正解ですが、Aの「返す」も [~が~に~を返す]と言えるので、同じタイプの構文になるのではないですか? |
ご質問の例文の通り、「返す」も Xガ Yニ Zヲ ~。 という構文になりますので、同じDグループなのですが、 さらに「もらう」は、 1)ジョン[が]スーザン[から]チョコレート[を]もらった。 と、[に]を[から]を使うこともできます。 その視点で考えると、 [もらう] 〇 ジョンがスーザンにチョコレートをもらった。 〇 ジョンがスーザンからチョコレートをもらった。 選択肢A 〇 ジョンがスーザンにチョコレートをもらった。 × ジョンがスーザンからチョコレートを返した。 選択肢C × ジョンがスーザンにチョコレートを盗んだ。 〇 ジョンがスーザンからチョコレートを盗んだ。 選択肢D 〇 ジョンがスーザンにチョコレートを借りた 〇 ジョンがスーザンからチョコレートを借りた。 解説に沿って選択肢Dを「チョコレート」にすると、文脈として不自然な印象を受けてしまいますが、 「チョコレート」を「本」にすると不自然ではなくなります。そのほかは「チョコレート」を「本」にしても文として成り立ちません。 したがって正答は選択肢D「借りる」となるわけです。 |
p.142 | 実力診断テストについて [9]達也は人よりいびきがうるさい 「人より」と対比されているのに主題の「は」なのはなぜでしょうか? |
[9]テキストの55ページにあるように、「は」の用法には「主題」と「対比」があります。主題というのは、ある現象や出来事の主体、すなわちある文が何について述べているかを示すものです。A、B、Cはそれぞれ「典子さん」「達也」がどういう人なのか、「日本」はどういうところなのか、ということを述べているので「主題の『は』」であると考えられます。対してDは「みかん」について何かを述べているわけではなく、「みかんは好きだった(けど、りんごは好きではなかった)」というように、対比されるものがあると感じられると思います。 Bについて「人より」とあるから対比なのではないかというご質問ですが、「は」を「対比」と考えるときは、「対」になるもう一つの相手の存在が感じられるかどうかがポイントです。「〇〇は~だが、△△は~だ。」のように〇〇と△△がお互い「は」で示され、対比ができるというイメージです。選択肢Bは「人より」と入っていることで、逆に対比されるもう一つの相手の存在は感じられません。例えば「達也はいびきがうるさい。」と「人より」をなくすと「達也はいびきがうるさい(が、他の兄弟はうるさくない。)」というように、対比される相手の存在が感じられ、「対比の「は」」となり得ます。 |
p.142 | 実力診断テスト[12]について質問です。 答えはBですが、Bの「あげる」とヴォイス的に対立しているのは、「もらう」と「くれる」 と解釈していいのでしょうか? |
[12]問題文で問われている点のポイントは「なぜ不自然なのか」という点の理由の説明です。
(ケーキ:私→佐藤さん) (ケーキ:佐藤さん→私) |
p.143 | 実力診断テスト[16]についての質問です。 問題文にでてくる『下位分類』という言葉の意味がよく理解できていません。対照箇所をよく読んでみたのですがあやふやなままなので、その言葉の意味も含めて、もう少し詳しく解説してください。 |
「下位分類」とは、ある基準によって区分された語(=「上位語」)から、さらにそれに包含される語(=「下位語」)を振り分けることです。 具体的な例として、例えば「学校」と「大学」、「植物」と「桜」のような関係の場合には、「大学」は「最も高等な学校」であり、「桜」は「ばら科の落葉高木である植物」です。この場合、「学校」の集合が「大学」の集合を含み、「植物」の集合が「桜」の集合を含んでいます。このような関係を「包摂関係」あるいは「上下関係」といいます。そして、意義特徴の少ない方、つまりより大きな集合を形成する方の語(=「学校」「植物」)を「上位語」、意義特徴が多く、この集合に包含される集合を形成する方の語(=「大学」「桜」)を「下位語」と呼びます。 (詳しくはテキスト5『言語学の基礎』p.53「2)包摂関係、上下関係」の項をご参照ください。) このことをふまえ、診断テスト[16]の内容を図で表すと以下のようになります。 (テンス) (アスペクト) (状態的なもの) -状態動詞 (非状態的なもの) -運動動詞 -動作動詞・変化動詞 この図では、『運動動詞』が「上位語」、その「下位語」として『動作動詞』と『変化動詞』があることを表しています。 これを問題文では、 (③動作)動詞と変化動詞は、(①運動)動詞の下位分類であると考えられている。 と記述しています。 ここで、状態動詞・運動動詞と動作動詞・変化動詞の関係をもう一度整理 してみましょう。 動詞はまず、テンス的な観点から、「動きを表す」動詞を運動動詞、動きを表さず「存在」「必要」「関係」「過剰な程度」「可能」「知覚」「感覚」「思考」などを表す動詞を状態動詞に分けられます。 次に、運動動詞はさらにアスペクト的な観点から、動作動詞と変化動詞に分けられます。加えて、動作動詞に接続された「ている」は「動作の継続」という意味をもち、変化動詞に接続された「ている」は「変化結果の継続」という意味を持つことになります。 以上のことから、上位・下位分類を見直してみると、より理解が深まるかと思います。 |
p.144 | 実力診断テスト[23]について質問です。 従属節についてさらに詳しい説明をお願いします。 |
解説にもありますが、南不二男の分類は従属節内にどのような要素が含まれ得るのかという 「構造」を基準とした分類です。 119ページにありますように、この分類は、 A類の従属節「コト」「ヴォイス」が入る B類の従属節「コト」「ヴォイス」「アスペクト」「みとめ方」「テンス」が入る C類の従属節「コト」「ヴォイス」「アスペクト」「みとめ方」「テンス」「判断のモダリティ」が入る という基準で従属節を分類することになります。 ここで「」で括られた用語は文法カテゴリーと呼ばれていますが、一つ一つの意味を以下に示しておきます。 「コト」…「が」「を」「に」(格助詞)などの文法形式 「ヴォイス」…「~られる」「~される」などの文法形式 「アスペクト」…ある出来事が始まるところなのか,現在行われているところなのか、既に終わったことなのかといった出来事の局面を表す概念。「~ている」という文法表現。 「みとめ方」…肯定/否定を表す文法カテゴリー 「テンス」…その文で述べられている事柄が、発話時から見ていつ起こったのかを表す文法的手段。過去を表す「~た」。 「判断のモダリティ」…その文で述べられている事柄に対する話し手の心的態度。推量を表す「~だろう」。 上記の要素が従属節に入り得るかどうかでグループを見分けます。 (詳しくは、第10章第4節(115ページ~120ページ)を確認してください。) つまり、入る文法カテゴリーからグループを特定するわけですから、本問題の答えは文法カテゴリーである「アスペクト」に言及されているDということになります。 「知っていながら知らないふりをする」という文の中には、従属節である「知っていながら」という部分にアスペクトが含まれています。 「知っていながら」という従属節は、「知ってい(る)+ながら」と分解することができ、この「知ってい(る)」という部分にアスペクトが含まれているというわけです。 同じナガラ節でありながら、分類が異なることについては 〈タスク21〉(p.120)でも取り上げられています。p.135に〈タスク21〉の解説が載っていますので、 こちらもぜひご確認ください。 |
p.144 | 実力診断テスト[24]について質問です。 これは、装定→述定テストをして、BとDは違うのは分かりましたが、AとCを変えたら、次のようになりませんか? A ことはさっき聞いた。 C 喜びは家族と暮らせることだ。or 家族と暮らせるのが喜びだ。 どのように考えたらいいのでしょうか? |
ご指摘の通り、連体修飾節が「内の関係」なのか「外の関係」なのかを判断する際には「装定→述定テスト」を行って判断します。このテストにおいて、連体修飾節が被修飾名詞との間に何らかの格関係(ガ・ヲ・ノ・ニなどの格を補える)を想定できる場合には「内の関係」、そうでない場合には「外の関係」ということになります。A-Dの文の「装定→述定テスト」をしてみると以下のようになります。 A. さっき聞いたこと→(その)ことをさっき聞いた 被修飾名詞「こと」にヲ格を補うことで、述定(元の文)に戻すことができました。「ことをさっき聞いた」では不自然な感じがしますが、「そのことを聞いた」というふうに「その」や「あることを聞いた」というふうに「ある」を補ったりすれば、自然になると思います。「こと」や「もの」のような形式名詞の場合はそのままですとちょっと不自然になりますが、考え方は他の名詞と同じです。そのため、Aは「内の関係」ということになります。 B. わたしが生まれた翌年→翌年に私が生まれた 被修飾名詞「翌年」にニ格を補うことで、述定に戻すことができますが、「翌年に私が生まれた」では「私が生まれた翌年」と意味が違ってしまうため、構造上は「装定→述定テスト」に成り立っているようですが、成立していません。よってBは「外の関係」です。 C.家族と暮らせる喜び→×喜びに家族と暮らせる ×喜びが家族と暮らせる 被修飾名詞「喜び」にニ格やガ格を補っても文が成立しません。ご指摘の「家族と暮らせるのが喜びだ」という文は「~のが~だ」という文型で作られており、「被修飾名詞を文内の格成分に戻している」とは言えませんので、これは述定に戻すことができたとはいえません。また、「喜びは家族と暮らせることだ。」という文も「~は―だ」と被修飾名詞「喜び」を「は」で主題化した言い方になっており、これも述定に戻したとはいえません。そのため、Cは「外の関係」であるといえます。 D.たばこを買ったお釣り→お釣りでたばこを買った 被修飾名詞「お釣り」にデ格を補うことで、述定に戻すことができました。しかし、Bと同様、「お釣りでたばこを買った」では「たばこを買ったお釣り」と意味が違ってしまうため、構造上は「装定→述定テスト」にパスしているように見えますが、成立しないということになります。したがってDは「外の関係」です。 以上がA-Dまでの「装定→述定テスト」の結果ですが、「装定→述定テスト」のように構造だけで「内の関係」なのか「外の関係」なのかを考える場合、BとDの例のように、「外の関係」であっても格関係が成立してしまうようにみえる紛らわしい場合が出てきます。しかし、内の関係・外の関係は、名詞修飾節と被修飾名詞との「意味的な関係」からもその違いが明確化されています。「内の関係」の例文として有名な「サンマを焼く男」では、男について「サンマを焼く」という説明をしていますが、男自体がどのような人物であるかという内容的側面は述べていません。つまり、内の関係の構造を持つ場合は、名詞修飾節が、被修飾名詞を補足説明する「補足節」としての役割を果たしています。一方、外の関係をもつ「サンマを焼くにおい」という例を見ると、「におい」の正体・中身について「サンマを焼く」と修飾節でその内容を具体的に説明しています。このように、修飾節がどんな「におい」なのかといった問いの答えになり得るものである場合は、「外の関係」であるといえます。この観点でA-Dを見てみましょう。 A. さっき聞いたこと→その「こと」はどんな内容なのか分からない→内の関係 B. わたしが生まれた翌年→「翌年」は私が生まれた年の次の年だとわかる→外の関係 C. 家族と暮らせる喜び→「喜び」の中身は「家族と過ごせる」という喜びであるとわかる →外の関係 D.たばこを買ったお釣り→「お釣り」は何のお釣りなのかというと、「たばこを買ったお 釣り」であることがわかる。→外の関係 以上のように意味的な観点で見ていっても「内の関係」か「外の関係」かを判断することができます。126ページでは、「内の関係」「外の関係」の意味的な違いについても説明されていますので、ご確認頂ければと思います。 |