NAFL6巻 よくある質問
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該当ページ | 質問 | 回答 |
p.5 | 「やさしいと晴れの先生」という誤用について説明をお願いします。 | テキストの冒頭で示された誤用例に関する質問です。テキストでは、この誤用の中には「一人の日本語を勉強している学習者のいろいろなメッセージが込められている」とあります。そのメッセージとは一体何なのかという質問かと思います。 まず、この表現自体に注目してみてみましょう。学習者はおそらく「やさしいと晴れの先生」という表現で、「やさしくて明るい先生」などと言いたかったと考えられます。ここでは、まず形容詞を並べる際に、「りんごとみかん」のように名詞を並列させるときと同じように、並列助詞「と」を使ってしまっています。形容詞を並べる際には「やさし「くて」明るい先生」などと「い」を脱落させて「くて」を付加しなければいけないわけですが、このルールを使うことができていないわけです。この背景には、一つの規則を別の規則を持つ語にも当てはめてしまう過剰一般化(テキストp.19-20)や形容詞をどのように並列させればよいのかがわからなかったために、とりあえず「と」を使ったというコミュニケーションストラテジー(p.21)などが考えられます。 また「明るい先生」を「晴れの先生」とした点については、母語では「晴れ」と「明るい」という言葉が同じ語彙で表せるとしたら、それは言語転移(p.19)が考えられます。または単に「明るい」という言葉を知らずにとにかく知っている言葉を使って意味する内容を伝えようとしたのかもしれません(コミュニケーションストラテジー)。 また、この誤用の特徴を見てみると、「~くて~」という初級前半で学習する形容詞の並列ができていないことなどから、学習者のレベルが初級であることがわかります。(誤用による学習者のレベルの違いについてはp.14でも触れられていますので、ご確認ください。) 以上のように、「やさしいと晴れの先生」という一つの誤用の中にも、学習者の言語背景や頭の中の言語体系、方略、日本語レベルなど様々な内容を示唆する情報が詰まっています。単に誤用といってもその内容は複雑で、学習者のレベルや誤用の原因など様々なメッセージを伝えてくれるわけです。テキストにはこの誤用のほかにも様々な誤用が紹介されていて、その誤用が何を意味するか、どのような背景があるのかなどが説明されていますので、一つずつ確認していきながら、第二言語習得とは何か、第二言語習得研究とは何かを勉強して頂けるとよいかと思います。 |
p.19-20 | 「過剰一般化」は、「学習ストラテジー」にみえるのですが、どう違うのですか。 | テキスト6巻p.20の学習ストラテジーの例「宿題ありますですか。」「来るですか。」は、「ですか」を疑問文に過剰に使用した「過剰一般化」とも分類できる誤用です。学習ストラテジーは、学習を高めるための学習者の具体的な行動、あるいは態度のことをいいますが、中には習得に結び付かず、結果的に誤用を生み出してしまう場合もあり、その一つが過剰一般化であるとお考えください。 |
p.20 | 「学習ストラテジー」とは何ですか。 | 学習ストラテジーは学習方略ともいい、学習を高めるための学習者の具体的な行動、あるいは態度のことです。オックスフォード(R. Oxford)は、学習ストラテジーを「知識を習得するために学習者が使うテクニックや工夫」であるとして、以下の6つに分類しています。 a.記憶ストラテジー さまざまな方法で覚えることによって学習を進める方法。語呂合わせや、単語カードの作成など。 b.認知ストラテジー 習った項目を使って繰り返し練習したり、理解しやすく分析したりする方法。スキミング(内容の大意をつかむ)やスキャニング(必要なものだけつかむ)、重要な部分にマーカーで印を付けるなど。 c.補償ストラテジー 外国語を理解したり、発話したりする際に足りない知識を補う方法。知らない単語を言い換えたり、文脈から推測したりする。身ぶり手ぶりなど。 d.メタ認知ストラテジー 学習者が認知するために調整するさまざまな方法。(bの上の段階)どのように勉強するか計画を立てる。自分の学習を振り返って評価するなど。 e.情意ストラテジー 学習者がくつろいで不安のない状態で学習するよう心掛ける方法。好きな音楽をかけたり、冗談を言ってリラックスしたりするなど。 f.社会的ストラテジー 人との交流によって学習を進める方法。目標言語話者の友人を作って話す機会を得る。ペンフレンドをつくるなど。 テキストで取り上げられている「*先生、宿題ありますですか。」「*先生は、学校、来るですか。」のように「ですか」を疑問文を表す形式として文末に取り付けてしまう学習ストラテジーの例は、過剰一般化とも取ることができます。しかし、すべての学習ストラテジーが過剰一般化になるわけではありません。 例えば、ある英語話者が「ありがとう」を「alligator(アリゲーター:小型のワニ)」に結び付けて覚えていました。しかし、実際に日本人にお礼を言う際、「感謝の表現=ワニ」と覚えていたため、「Crocodile!(クロコダイル:大型のワニ)」と発話してしまった、ということがあります。これは学習ストラテジーの中の記憶ストラテジーが不適切に作用した例です。 <参考文献> 迫田久美子(2002)『日本語教育に生かす第二言語習得研究』アルク |
p.27 | 普遍文法、核心文法、個別文法についてお聞きします。核心文法と周辺文法を獲得し個別文法ができるとのことですが、「周辺文法とは、普遍文法の管轄の外にあり、普遍文法からは予測できない規則と考えられています」という説明がよく分かりませんでした。 | 普遍文法、核心文法、個別文法の関係から順に確認していきます。 「普遍文法」とは、普遍原理とパラメータ、つまり原理の作用の仕方を指示するものですが、このパラメータが未設定の段階です。この段階は、大きな枠組みがある、というレベルを指す抽象的概念であるため、どの程度の能力かはっきりと言うことができません。次に、「核心文法」という段階に進みます。核心文法に進むことでパラメータが設定され、言語の基本的な文法が形成されます。ここで言う「基本的な文法」とは、主に統語的な部分を示し、日本語と英語を比較すると、日本語は[主語][目的語][動詞]という順番ですが、英語は[主語][動詞][目的語]という順番になることを意味しています。 例) 日本語:太郎がリンゴを食べた。 英語:Taro ate an apple. もう少し詳しく説明すると、パラメータは基本的には二者択一で決まるとされています。そのため、先ほどの例でいえば、目的語の位置が「左」か「右」かで、大きく設定されると考えられます。目的語の位置が動詞の「左」(日本語)か「右」(英語)か、どちらかに設定されることになります。また、母語獲得においてパラメータを設定していく過程には、部分集合原理が働いているとされています。これは大きい枠組みからパラメータが設定されるため、多くの言語に当てはまるもの(文法)から、パラメータを設定していくというものです。そして、だんだんと詳しく、特徴的な文法のパラメータが決まっていくと考えられています。このように考えると、核心文法が一度にビシッと決まるとは考えにくく、だんだんと部分的に(モジュール的に)決まっていくと考えられます。 次に「個別文法」という段階になりますが、核心文法が上記のように決まっていくとすると、その「核心」から外れた部分をどう理解し、習得していくかが問題になります。私たちが実際に話したり書いたりする言語は、全てが正しい文法に沿ったものではなく、また個別の状況によって表現は様々変化するかと思います。例えば、「太郎がリンゴを食べた」、主語→目的語→動詞、と「目的語は動詞の左」とパラメータが設置されたとしても、実際の会話では「リンゴ、太郎が食べたよ。」などとなることもあり、核心文法だけでは説明できない、言語活動もあるかと思います。 このような設定されたパラメータから外れた部分を「周辺文法」と呼んでいます。「予測不能」「外れた」部分を含む多くの周辺文法のインプットによって、徐々に発達した段階に進みます。この普遍文法理論で大切なことは、人間には生まれながらにして、言語を獲得する力が備わっていて、その装置をインプットによって動かしていく、という考え方で、この原理に基づいて、学習者の言語能力を研究する研究者たちがいるということを理解しておくことが重要になります。 |
p.28 | 「有標」と「無標」がよく分かりません。 | 日本語では、形容詞「長い」「短い」は、相互に意味的な対立関係にあり、「長い」の方が「どっちが長いか」「どのぐらい長く」「どのぐらいの長さか」など、汎用性と高い使用頻度を持っています。もちろん「短い」も、「どっちが短いか」「どのぐらいの短かさか」という文を作ることはできますが、その場合は、対象物が短い性質を持っていることが含意されている場合に限られます。また、物の長さを言うときに「短さは」という表現は、日本語として不自然に思われます。有標性とは、ある要素(この場合は「長い」)が、他の要素(ex.「短い」)より基本的かつ自然で、使用頻度が高いときにそれ(「長い」)を「無標」と呼び、他の要素(「短い」)を「有標」と呼ぶものです。有標性の概念は、音韻や文法におけるさまざまな現象の説明に用いられています(ただし、有標性は傾向ですので、すべての言語項目が有標、無標で割り切れるというものではありません)。 動詞の場合、「読む」と「読まない」「読んで」「読めば」などを比べると、どちらが基本的かを考えれば「読む」が無標といえるでしょう。例えば「読む」の活用を答えなさい、という問題はありますが、「読まない」の活用を答えなさい、とは普通は聞きません。 同様に、核心文法と周辺文法を考えるとき、どちらが基本的かというと、核心文法ということになります。核心文法を基本として、それからさまざまな言語規則を獲得したものが周辺文法ですから、基本となる核心文法が無標、ということになります。 |
p.32、49 | 教室指導における「インターフェイスのの立場」と「ノン・インターフェイスの立場」についての質問です。 「教室で指導する文法規則は実際の運用には活用できないとするノン・インターフェイスの立場」(p.49)という説明は、「ノン・インターフェイスの立場では教室指導が無意味であると考えている」とも理解できますが、その理解を前提にすると、ノン・インターフェイスの立場に立つモニター・モデルによる「ナチュラル・アプローチ」という教授法(p.33)においては、教室指導を行わないのでしょうか。それとも、「インターフェイスのの立場」と「ノン・インターフェイスの立場」の違いは、あくまで「文法規則」についての立場の違いであって、「ノン・インターフェイスの立場」は、教室指導自体を否定しているわけではない、と理解すればいいのでしょうか。「ノン・インターフェイスの立場」の教育現場のイメージを具体的に示しながら説明してください。 |
クラッシェン(Krashen 1980、1985など)は第二言語習得とはどのようなものか、という理論を考えるに当たって、習得と学習という概念を確立し、それぞれは独立していて互いに交わることがないというノン・インターフェイスの立場をとっています。しかし、教室指導は意味がないと言っているわけではなく、教室指導によって身に付けた文法知識は、意識的に学んだものであるため、子供が母語の文法知識を無意識的に習得するのとは異なっている、つまり学習と習得とは異なる過程を通るのだと主張しているのです。(第一言語習得と第二言語習得は同じではないと考えています。) ですから、テキストの「教室で指導する文法規則は実際の運用には活用できないとするノン・インターフェイスの立場」は、「教室での意識的な学習(ここでは文法規則)」と「習得(ここでは実際の運用)」との違いを説明した一文であり、同じくテキストにある「教室指導を受けてもスムーズに話せるようにはならない」とは少々強すぎる表現で、「母語で話すのと全く(意識の上でも)同じようにスムーズに話すのは難しい」と言ったほうが適切でしょう。 また、p.32で「習得と学習は互いに独立した過程であり、学習が習得に変わることはない」とも述べています。この文の「変わることはない」は「習得できない」という意味ではありません。クラッシェンは、親から多くのインプットを受けて習得していく母語と同じように、第二言語を習得するのが理想的だと考えています。したがって、「第二言語も習得するものである」というのが、彼の主張です。 ただし、最近では学習と習得にはなにか関係があるという「インターフェイスの立場」をとる研究者も増えており、教室活動で学習した知識が、無意識下に習得された知識に変わっていくのではないかという考え方に着目した研究も多くなっています。またここでの「学習」とは、意識的に言語の規則を学ぶもので、従来の学校の文法中心の言語教育を指しています。ですから、実際の「運用」を意識した教室活動を取り入れることで、意識的な学を習得に近づけていくことができると考え、その後様々な教授法も生まれてきたのです。 |
p.39 | 「形態素の習得順序」「文構造の発達順序」に関しての質問です。 「習得順序」「自然な順序」「正確さの順序」「発達順序」がさまざまな調査研究によって明らかになっているということは興味深く理解しました。とはいえ、これらの調査研究によって得られた実務へのインプリケーションについての言及がありません。実務には、具体的にどのように活用すればいいのでしょうか。あるいは、具体的活用に関して言及された文献、論文等があればご教示ください。 |
6巻「第二言語習得論」で述べられている内容は、学習者が第二言語をどのように習得していくのか、という習得研究について述べられているものです。ですから、習得研究から実際にどのように教育現場に落とし込んでいくのかという点は、習得研究を応用した別の研究となります。ただ、クラッシェンのモニター・モデルは、テレルによってナチュラル・アプローチという具体的な教授法に発展させているなど、習得研究が教授法に与えた影響はとても大きなものとなっています。また、ほかにも色々な外国語教授法が確立されてきましたが、一番良い教授法というものはなく、習得研究など様々な研究を応用し、様々な教授法を生み出し、その良い部分を組み合わせて指導しているというのが現状です。その要因の一つに、最近では学習者のニーズも多種多様になってきており、同じ教授法でも学習者が異なれば効果も変わってきてしまうことが挙げられます。 このように考えると、習得研究をどう活用していくかという点は各現場によって異なりますが、以下の文献は、 『日本語教育に生かす第二言語習得研究』迫田久美子著 『日本語教師のための新しい言語習得概論』小柳かおる著 どのように習得研究を日本語教育に生かかしていくのか、という考え方が示されています。引用された習得研究の論文の記載もありますので参考にしてください。 |
p.44 | 「言語転移」と「母語干渉」は同じものと考えていいですか。 | テキスト6巻のp.19にもありますが、「言語転移」は中間言語研究でセリンカーが中間言語が作られる要因としてあげているものです。学習者の母語(または既習の言語)が第二言語を習得する場合に何らかの影響を与えることをいいます。これに対し、対照分析研究では母語が第二言語学習に悪い影響を与えると考えたため「母語干渉」という表現を用いました。この二つの大きな違いは、前者はプラスにもマイナスにも働く可能性がある(「正の転移」「負の転移」)と考えているのに対し、後者はマイナスに働く場合のみを考えているところに違いがあります。 |
p.46 | 「メタ認知ストラテジー」とはどういうものですか。 | meta-はもともと「のちに、ともに」などの意を表す接頭辞ですが、後に学問の分野を表す語(psychology、mathematics、linguisticなど)を伴い、関連する新しい学問分野を意味する語をつくります。 テキスト6巻では、「メタ認知ストラテジー」として出てきます。例えば、学習者が1日3つの漢字を10回ずつ書いて覚えることにしたとしましょう。どんな種類のストラテジーが現れるでしょうか。まず「繰り返し、反復」のストラテジーが使われるでしょう。これは「認知ストラテジー」と呼ばれるものの一つです。一方で、「この勉強方法を1年間続けていくと、約千個の漢字を覚えられる計算になるから、新聞記事に出てくるだいたいの漢字が分かるようになる」と考え、「新聞が読めるようになるため」という学習目標を持つのが「メタ認知ストラテジー」です。つまり、「メタ認知ストラテジー」は、学習を総合的に進めていくために必要なストラテジーの一つといわれ、どのように勉強するかの計画を立てたり、自分の学習を振り返って評価したりすることを指します。「認知ストラテジー」のさらに上の段階で用いられます。 |
p.52 | 「教室指導の提示順序は、第二言語の発達順序に影響を及ぼさない」の意味が分かりません。 | 「教室指導の提示順序は、第二言語の発達順序に影響を及ぼさない」という部分についての質問ですが、まず「提示順序」と「発達順序」という言葉の説明をしましょう。 「教室指導の提示順序」とは、教室で提示する文法項目の順序のことです。例えば、「これは本です」と「私は今日学校へ行きます」のどちらを先に教えるか、または「ている」にはいろいろな意味がありますが(現在進行中の「私は今、ご飯を食べています」や結果の状態の「私は結婚しています」など)、そのうちどれを最初に教えた方がいいのか、ということです。 「発達順序」はテキストp.39で解説されている「発達順序(developmental sequence)」のことです。つまり、疑問文や否定文といったある項目を習得する際に必ず通る普遍的な道筋のことです。 ですから、この「教室指導の(中略)及ぼさない」という部分は、学校や先生がどのような提示順序で教えても、学習者がある項目を習得するために通る道筋は影響を受けず変わらない、ということです。しかし、これは「教える順序は何でもいい。あまり深く考えなくてもいい」という意味ではありませんので、教育の現場ではそれぞれの教育目的や教育機関の考え方を踏まえて、どのような順序で教えるかを考えて計画しなければいけないでしょう。 |
p.55 | 「場依存型」と「場独立型」の「場」と「部分」のとらえ方とは、具体的にどういうことでしょうか。 | 第二次世界大戦中に、高度な訓練を受け、非常に優秀とされたパイロットの中に、夜間飛行の最中、コースを見失う者や天地が逆転する者などが出てきて問題になったそうです。「場依存型(field-dependent)」「場独立型(field-independent)」とは、もともと、このような問題に端を発した心理学的研究によって出てきた概念です。 パイロットの場合でいえば、注意をそらすような外的な刺激や要因に惑わされることなく垂直を知覚し、方向を見失わないための手掛かりに集中できるタイプが「場独立型」と呼ばれました。一方で、垂直や方向を判断するための要因と、他の決定に必要な要因とを分離できないタイプを「場依存型」と呼びました。 では、日本語学習者においては、このようなタイプの違いはどのようにとらえられるのでしょうか。教室には、さまざまな学習者がやってきます。中には、「よくやっているようだけれども、何だか上達しない」と職員室で話題になる学習者もいます。例えば、非常にフレンドリーで、クラスになくてはならない存在となっていて、しかも重要な場面でとてもいい意見を出してくれたり、情報提供をしてくれたりする、しかし、いつまでたってもその言語運用の中に既習の文法項目など教室でやったことが反映されていかないという場合です。もう少し具体的に言えば、いつまでも単文をたどたどしくつないで話を通じさせようとする、例えば「て形」で文をつないだり、複文を使えるようにならないというような場合があります。一方で、クラスで行われていることがどのくらい分かっているのか、と疑うほど、いつもは静かにしていて、そのくせ、指名されると前課までに習った文法事項などを正確に取り入れて発話できる学習者もいます。 どの人はどちらのタイプと決め付けてかかることには注意が必要ですが、前者はどちらかといえば「場依存型」、クラスの雰囲気や流れはよく把握しながらも、そこで取り上げられている文法や知識といったものにフォーカスすることができないタイプでしょう(「できない」という場合もありますし、そういったことにあまり重点を置かないという場合もあるでしょう)。後者は、どちらかといえば「場独立型」で、クラスで行われているロールプレイなどのアクティビティーをきちんと練習の場面としてとらえ、そこで習い覚えるべきことに十分に注意を払うことができるタイプといえるでしょう。このような違いが、p.55の表中「場・部分のとらえ方」に説明されていることの一例と考えていただければいいと思います。 ただし、コースが終わって、たいていの学習者は多くの日本人の中に放り込まれて、さまざまなコミュニケーションの必要に迫られていくわけですが、そうなった場合に、どちらが成功していくタイプかというのは、なかなか予測がつけがたいものがあります。 |
p.64 | 「コンテクスト」とはどういう意味ですか。 | 「コンテクスト」とは、文脈や脈絡、場面といった意味です。例えば、外国でホームステイしているとします。キッチンで家族に「xxxは好き?」と聞かれました。xxxの部分は分からなかったのですが、調理してあるものを見て、これかなと見当をつけ、「好きです」と答えました。これは高コンテクスト・コミュニケーションの例です。 同じ「xxxは好き?」という文を訳せという問題が、語学のテストで出たとします。短文がたくさん並んでいるだけで、ヒントはありません。これは低コンテクスト・コミュニケーションです。 外国語で映画やドラマを見るとき、始めから見ていれば理解できたものも、途中から見たのでは、登場人物の関係や設定が分からずに非常に苦労することがあります。コンテクストが分からないからです。 |
p.64-65 | サブマージョン教育とイマージョン教育が実際には大した違いがないように思え、その区別が分かりません。 サブマージョンは「少数言語民族」に対し「多数派言語」で授業をし、二言語利用に消極的で同化傾向(日本国内では実質的にこのタイプ?)。イマージョン教育は「第2言語習得者」に対し「第2言語」で授業をするもので、二言語利用に積極的(カナダケベック州の例)、という理解でいます。 1)例として、日本国内で生活している学習者にとっての多数派言語とは生活していくうえで必要な第二言語だと思うのですが、違いますか。 2)双方の授業の内容にどんな違いがあるのでしょうか。 |
2つの教育の違いについては第6巻「第二言語習得論」p.64-65に説明がありますので、それをお読みになった上での質問と思います。 そこで、ここでは二つの違いを、英語を学習する日本語母語話者を例に説明してみようと思います。イマージョン教育は、日本語母語話者が社会や算数などの教科を目標言語である英語で習うもので、教科教育と言語習得を両方同時に進めようとする教育方法です。イマージョン教育の場合、学習者の母語は全員日本語で、教師が目標言語母語話者になります。一方サブマージョン教育の場合は、英語母語話者の集団の中に日本語母語話者が入り、第二言語である英語であらゆる授業を受けます。サブマージョン教育では以上のような教育環境が影響して、母語が失われる可能性が高いと考えられ、イマージョン教育の学習者の集団は同じ母語を持つ学習者であるので、母語が失われる可能性は少ないと考えられます。 1)の質問について、「日本国内で生活している学習者にとっての多数派言語とは生活していくうえで必要な第二言語だと思う」とのことですが、これは学習者にとっての多数派言語は「日本語」ではなく、例えば「英語」などのような第二言語ではないか、また学習者は「日本語学習者」ということでしょうか。そのような解釈で回答すると、確かに生活していくうえで日本語よりも英語の方が必要になってくる、また周りで多く使われている、という環境にある学習者もいるかもしれません。ただ、イマージョン教育/サブマージョン教育というのは学校教育ですから、日本における多数派の言語集団の学校教育と考えた場合、それは通常「日本語」ということになるかと思います。 2) は、上でもお答えしたように、イマージョン教育は社会や算数などといった教科を目標言語で教えていくもので、教科教育と言語習得を両方同時に進めようとする教育方法です。生徒は皆目標言語の非母語話者ですから、授業目標として言語習得という側面がより意識されているものと考えられます。イマージョン(immersion)は日本語で「浸す」という意味ですから、とにかく目標言語にどっぷり浸ることで、バイリンガル化をはかっていくようなイメージです。一方、サブマージョン教育は母語話者集団の中に非母語話者がぽつんと入り、目標言語であらゆる授業を受けるということになりますから、教育内容として言語習得が目標に掲げられているというわけではありません。「サブマージョン」というのは、英語“submersion”= 水に沈める、という言葉から来ており、少数派の学生が、多数派の海の中に「沈む」ことで、自然と言語を習得することが期待されているわけです。(ですから、中にはその海の中で「泳げるようになる」=上達するというケースもありますし、「途中でおぼれてしまう」=授業についていけなくなる、というケースもあるわけです。) イマージョン教育とサブマージョン教育については第21巻「異文化間教育とコミュニケーション教育」p.13-14にも説明がありますので、こちらも参考にしてください。 |
p.68 | 「質的研究と量的研究を、これらをさらに具体的に実際の習得研究の方法で分類すると「縦断的研究」と「横断的研究」に分けられます。」と本文にあります。これは、質的研究を具体的にしたものが縦断的研究で、量的研究を具体的にしたものが横断的研究ということでしょうか。それとも、質的研究にも縦断的研究と横断的研究があり、量的研究にも縦断的研究と横断的研究があるということでしょうか。質的研究と量的研究から、縦断的研究と横断的研究への繋がりがはっきりと分かりませんでした。 | 質的・量的研究、また縦断的・横断的研究とは、単に第二言語習得の調査方法としてだけではなく、広く社会学や心理学などあらゆる研究分野で行われる方法の総称です。ご質問に「質的研究と量的研究から、縦断的研究と横断的研究への繋がり」とありますが、それぞれ繋がりが必ずしもあるわけではなく、別の研究手法とお考えいただいたほうが良いかと思います。簡単に以下に特徴を整理します。 質的研究:ありのままの状態を観察し、記録する方法。被験者は少なくても良いが、真実で有効性のあるデータが必要。 量的研究:客観的な資料を基に、仮説を証明していく方法。被験者は多く、一般化できる大量のデータが必要。 縦断的研究:長期間にわたって、少人数の被験者を観察する方法。データ収集に長い期間が必要。 横断的研究:ある集団のある時期の大量のデータから分析する方法。統計的な処理をするため、ある程度大量のデータが必要。 このように見ると、第二言語習得研究の場合、質的研究と縦断的研究は方法としてきわめて近く、また量的研究と横断的研究もほぼ同一で繋がりがあると考えることもできますが、これをもって一般的に両者に繋がりがあるものだということはできません。 例えば、5年に1度、厚生労働省が行っている『出生動向基本調査』の分析方法を見てみます。これは客観的な大量のデータを集めて分析する量的研究ですが、具体的な手法を見ると、同時期のデータを分析する横断的調査研究の手法と、5年ごとの長期間のデータを比較、分析する縦断的研究の手法と、二つの方法を用いています。 まずはどのようにデータを集めるかという視点で「質的か量的か」、いつの時点のデータを分析するかという視点で「横断的か縦断的か」とお考えいただければと思います。 |
p.91 | タスク30の私の答えとして、『周囲の友達と一斉に日本語学習をする環境がないこと。』と一つだけ書いてみました。 解答と解説にはテキスト内と同じ表が掲載されています。内容的には問題文にあるような『日本語教育および日本語指導に関する問題点』ではなく、学校教育の問題のように思えてしまいます。このタスクの模範解答を、いくつか教えてください。 |
解答例の表について、日本語教育の観点で考えてみましょう。 ●受け入れ 「児童も保護者も日本語が分からない」というのは、まさに「日本語教育」の問題です。母語が日本語である児童や保護者である場合には、起こりえない問題点です。 ●生活指導 「意思表示をすることができない」という点は、「言語で意思疎通ができない」と考えてみましょう。また、「生活への適応」というのも、外国人児童がそれまで生活していた国での習慣と日本での習慣が異なるため、日本で生活している児童と比べると適応は難しいでしょう。 ●教科指導 「書くことに不慣れ」という点は、ひらがな、カタカナ、漢字を書くことは当然不慣れでしょうし、日本語で理科や社会などの教科を学んでいるので、「内容の理解」や「ノートの整理」も当然難しくなるでしょう。 以上のように、この表に書かれている点を「日本語が母語ではない児童に教える場合はどのような問題となりえるのか」という観点から考えてみると良いでしょう。 |
p.102 | 実力診断テスト6問14の正解がCとあります。これはDではないでしょうか。解説にも、目標言語と母語の隔たりを小さいと感じる場合、負の言語転移が起こりやすいと記載があります。 | 実力診断テスト〔14〕は「言語転移に関する内容で正しくないもの」を選ぶ問題です。テキストp.44に「目標言語と母語の違いを学習者が小さいと感じる場合と大きいと感じる場合とでは、前者のほうが負の言語転移が起こりやすいようです」とあります。選択肢Dは正しく、従って選択肢Cが正しくないということになります。 |